❏2008年中央教育審議会答申の「生きる力」
この言葉は、欧州OECDの「キー・コンピテンシー」、米国タスクフォースの「21世紀型スキル」を先取りした概念であるが、極めてポエティック(耽美的、詩的)であり、論理性具体性に欠けていた。だから現場から、「気持ちは伝わるが、具体的に何をどうすれば良いのか分からない」の声が出た。この辺が、日本人と日本語の良い面でもあり、悪い面でもある。何となくフンワリと分かるものの、実態が掴めない。日本人が結論が出ないまま、延々と会議を続けた挙句、何の結論にも達しないのは日本語という曖昧な言語が持つ弱点が露呈するからである。考えてみたら良い。「生きる力」は英語になるのだろうか? 私は無理だと思う。感覚的な表現に過ぎない。俳句や短歌に近い世界である。

同じような内容でも、国際バカロレア(IB)が描く「10の学習者像(イラストの出典:nanapi)」には具体性がある。一つの大掴みの概念を10の側面に分解し、立体的に学習者像を描こうとする姿勢が感じられる。私は、このIBスキームの学習者像を初めてみた際、これを上回る学習者像を描くことはちょっと難しいと思えるほど、完成度の高さを感じた。これは欧米の言語が現実を描き出す底力だと思う。恐らく日本語の「生きる力」と同じ実体なのだろうが、まるで描ける世界が別モノなのだ。


  ↑国際バカロレアが描く学習者像


❏学習方策として「探究学習」及び「創作学習」で現実化が可
これまでのような主要3教科(英・数・国)とか5教科(理科・社会をプラス)、さらに実技を含む9教科とか増やしても結局、栄養素をバラバラに摂取するような行為である。食育に食べ物である生き物を分離・精製せず食べる「全体食(whole meal)」と呼ぶ考え方があるのと同様、知性や感性も人間の都合でバラバラにして、別々に摂取して上手い具合いには、そう再構成できるものではない。

結局、「全体食」するように「一つのまとまった活動」に従事することで、過不足なくリアリティのある能力獲得が可能となる。なぜなら各々、統一性のある活動に従事するからなのだ。それが、スーパーサイエンスコースで推進する知性を磨く「探究学習」や感性を磨く「創作学習」である。それら一連の活動をすることを通じて、結果的に「必要で十分な学び」が得られるのだ。逆に、バラバラの学びのパーツをどう組み合わせても、まとまった一つの学びを再構成することはできない。しかし、これまでの学校の教育課程は不合理な断片化を続けてきたのである。何のため?教える側の都合からなのであろう(竹内)。