❏福沢の『学問のすゝめ』の真意
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と福沢諭吉は語ったが、これには裏の意味がある。つまり学を持たないと、人の風上に立てず、人の風下に下ることを諭している。これには非常に際どい、危険球的な意味合いが秘められている。つまり平等意識を謳っているようで、上下関係を強調しているとも言えるのだ。学問がその決定づけになっているとしたら、情けないことだと私は思う。純粋な学問的な興味で動機づけられている人間は、謙虚さを喪失しないものだ。ただ自分が妬っかむ心根がある者は人も同じ思考回路を持つと錯覚していることが多い。力不足で上に立てば地獄なのだろうが、仕方ない。
教職大学院大学の西川純教授は最近、真逆の『学問以外のすゝめ』を唱えている。学問「以外」だ。ある意味、言い得て妙である。私も西川教授も元は生物科学を志した身だから伴に、"学問の憧憬"という意識では人後に落ちない。が、昨今のように学問が人を等級づけするような風潮には違和感を禁じ得ない。その意味では、(信頼を寄せてきたはずの)学問の世界がそれほどキレイだとは思えず、これならば、いっそ100%才能がモノを言う世界の方が余程、スッキリしているような気もしてくる。
実際、私が1999年、バンコクの英語学校でTOEFLの英文ライティングのコースを受けていた頃、ある大学教授の息子がミュージシャンを目指していて、親が「息子は自分より遥かに成功することが難しい職業に挑戦しようとしている。」と語っている続きを論じるような練習課題があった。英語圏では、こういう意見が分かれるような論点を俎上にあげる議論が日常茶飯事なのである。日本人社会が余りにも脳天気で、人間として自ら考える習慣を放棄してしまっていると思える。
❏競争原理は成長でなく争いを招く
結局、人は「比べる」人生に囚われている限り、永遠に満足に到達することはない。だが、競争が良いことだと信じて疑わない階層にいる人間の比率が依然として高い。特に、農耕民族である日本人には、他人をみて自分を自覚する「手鏡」人生を送っているタイプが高い比率を占めているので尚更だと思う。大方の心中を察すれば、「あいつより上位だから良かった。」と胸を撫で下ろす人生だ。自分のモノサシではなく、他人にモノサシを当てられることを待つ人生。これでは、目が輝く真人間になれる道理がない。それにも拘わらず、日本はこの道を好んで選んできたフシがある。その挙句、現在の混迷した日本的な奇形社会を学校教育が産み落としたのだろう。

↑国際バカロレア(IB)本から(2016)
秒刻みの世界一パンクチュアルな鉄道を生身の人間が身を投げてミンチ化して電車を止める人身事故。人が住めなくなるほどの未曾有の放射能駄々漏れ事故を起こしても、それが国土の最も東端で起こったという幸運を教訓にもせずに、全く懲りずに西端でもやらかそうとする国家。もう呆れてモノも言えない。どれだけ過去40年間掛けて脳ナシ日本人を増産してきたのか知れない。人類の歴史は愚かな人間を災害や戦争でリセットすることで、ガラガラポンしてきた。またもや繰り返すことになるのか、教育を変えることですんでの真際に間に合うのか、全て現代を生きる人間の生きる姿勢がカギを握っている。私はするべきことを行い、言うべきことを言っている(竹内)。
付記:出典は、大迫弘和(2016)アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア-「覚える君」から「考える君」へ-(日本標準)です。本体価格900円、総78ページの小冊子ですが、読み応えは満点です。文科省やIB機構にも、アドバイザーとして参画されている方です。公式ブログ記事でもIB教育に触れています。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と福沢諭吉は語ったが、これには裏の意味がある。つまり学を持たないと、人の風上に立てず、人の風下に下ることを諭している。これには非常に際どい、危険球的な意味合いが秘められている。つまり平等意識を謳っているようで、上下関係を強調しているとも言えるのだ。学問がその決定づけになっているとしたら、情けないことだと私は思う。純粋な学問的な興味で動機づけられている人間は、謙虚さを喪失しないものだ。ただ自分が妬っかむ心根がある者は人も同じ思考回路を持つと錯覚していることが多い。力不足で上に立てば地獄なのだろうが、仕方ない。
教職大学院大学の西川純教授は最近、真逆の『学問以外のすゝめ』を唱えている。学問「以外」だ。ある意味、言い得て妙である。私も西川教授も元は生物科学を志した身だから伴に、"学問の憧憬"という意識では人後に落ちない。が、昨今のように学問が人を等級づけするような風潮には違和感を禁じ得ない。その意味では、(信頼を寄せてきたはずの)学問の世界がそれほどキレイだとは思えず、これならば、いっそ100%才能がモノを言う世界の方が余程、スッキリしているような気もしてくる。
実際、私が1999年、バンコクの英語学校でTOEFLの英文ライティングのコースを受けていた頃、ある大学教授の息子がミュージシャンを目指していて、親が「息子は自分より遥かに成功することが難しい職業に挑戦しようとしている。」と語っている続きを論じるような練習課題があった。英語圏では、こういう意見が分かれるような論点を俎上にあげる議論が日常茶飯事なのである。日本人社会が余りにも脳天気で、人間として自ら考える習慣を放棄してしまっていると思える。
❏競争原理は成長でなく争いを招く
結局、人は「比べる」人生に囚われている限り、永遠に満足に到達することはない。だが、競争が良いことだと信じて疑わない階層にいる人間の比率が依然として高い。特に、農耕民族である日本人には、他人をみて自分を自覚する「手鏡」人生を送っているタイプが高い比率を占めているので尚更だと思う。大方の心中を察すれば、「あいつより上位だから良かった。」と胸を撫で下ろす人生だ。自分のモノサシではなく、他人にモノサシを当てられることを待つ人生。これでは、目が輝く真人間になれる道理がない。それにも拘わらず、日本はこの道を好んで選んできたフシがある。その挙句、現在の混迷した日本的な奇形社会を学校教育が産み落としたのだろう。

↑国際バカロレア(IB)本から(2016)
秒刻みの世界一パンクチュアルな鉄道を生身の人間が身を投げてミンチ化して電車を止める人身事故。人が住めなくなるほどの未曾有の放射能駄々漏れ事故を起こしても、それが国土の最も東端で起こったという幸運を教訓にもせずに、全く懲りずに西端でもやらかそうとする国家。もう呆れてモノも言えない。どれだけ過去40年間掛けて脳ナシ日本人を増産してきたのか知れない。人類の歴史は愚かな人間を災害や戦争でリセットすることで、ガラガラポンしてきた。またもや繰り返すことになるのか、教育を変えることですんでの真際に間に合うのか、全て現代を生きる人間の生きる姿勢がカギを握っている。私はするべきことを行い、言うべきことを言っている(竹内)。
付記:出典は、大迫弘和(2016)アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア-「覚える君」から「考える君」へ-(日本標準)です。本体価格900円、総78ページの小冊子ですが、読み応えは満点です。文科省やIB機構にも、アドバイザーとして参画されている方です。公式ブログ記事でもIB教育に触れています。