❏遅れて教壇に立ったから看破できた
若い頃から教員をしてきたら、これほどショックを受けなかったことと思う。私が53歳で初めて高専の教壇に立った日の想いは、「何、これ!」だった。自慢ではないが、教歴はゼロ。つまり教えた経験がない。でも、今にして想うと、これが今の私に通じる。学校の慣行には一切、毒されていなかった。それゆえ先入観もゼロで、私の目からは学校で進行しているコトの一部始終が"丸見え"だった。

工業高専には『工業英語』という英語教員でないのに、英語を教える授業が4、5年(大学1、2年相当)向けにあった。私自身は語学の才能があると思わないが、英語の学び方はアレコレ工夫してきたので、独自の指導法を編み出し、英語で卒業論文を書かせたり、国際会議での英語での口頭発表の指導に実績がある(私はガイダンスしたが、最後は当人の努力の成果)。いずれにしても、私は「暗記学習」を徹底的に否定する。が、なかなか真意を理解して貰えない。結果として「覚えてしまう」のは否定しない。それは「暗記」ではなく「身についた」だからなのだ。第一、暗記の有無は"all or nothing"で成長がない。暗記より類推の方が的中率があがる。アンテナが立っていくのだ。「最初に覚える」ことと「最後には覚えてしまう」ことは対極の関係だ。内省的な振り返りをすると、自分が通った道を認知科学的に見つけられる。

試験に追いまくられて点数を取れば、学んでいると錯覚する。日本の学校は、このタイプの人間を量産してきた。だから自他境界も形成されず、他人と自分を常に比べる性癖が摺りこまれていく。だから他人の成功を喜べない。男でも女以上に嫉妬する。嫉妬し出すと、自分自身の成長も止まる。日本で長く続いた「受験偏差値」に基づく教育は、英語を使えない日本人を蔓延させただけに留まらず、他人の成長を喜べない歪んだ日本人を量産してきてしまった。しかも、偏差値秀才が優れた人間であり、成績が振るわない自分がダメな人間だと洗脳されてしまうのだ。日本の学校教育はまるで「集団催眠」のごとく成績上位者も成績下位者も伴に貶めるほど、見事な破壊工作だった。それが福島原発の事故や昨今の日本企業の凋落に至る結果となっていると、私は理解している。今、その証拠を見せて貰っている気がする。

❏日本に「偏差値」が導入された経緯
先頃、偏差値の考案者(桑田昭三氏)が他界された(訃報)。東京都の中学校教諭だった当時、進路指導で勘に頼って失敗した経験を克服するため、役立つ評価基準がモノサシとして欲しかったのが動機である。「偏差値」そのものには罪はない。無論、考案者も、である。問題は、その運用の仕方にあった。

日本政府はある意図を秘めて偏差値の導入を決めたらしい。この情報に関しては以前、大前研一氏が彼のたくさんある著書の一つにさり気なく書かれていて知った。大前流の情報リークのさせ方だと思う(私自身も、どの本に書かれていたのか書名を思い出せない)。その後、数年前から週刊誌(週刊ポストのコラム)の記事でも曝露していた。実は、時の総理経験者が特定の目的のため偏差値を導入した。それは、1960-70年頃に各地の大学で起こった学生運動を阻止する狙いだった。偏差値で「人の一生が、否応なく確定していく人心管理システム」である。私自身は、目的が達成さえできれば、何処の大学でも構わなかったので全然、術に嵌っていない。

その後、学生運動が下火となり卓効があったのは明白である。が、まさに劇薬だった。薬が効き過ぎて、社会や世界を見るのではなく、自分の偏差値を気にする小粒な人間が量産されて行ったのだ。私の学生時代には東大を卒業し、大学の研究室や国立の研究所にいるインテリ層の大半は日本共産党の機関紙『赤旗』の購読者だった。今では東大生の親は年収1千万を越える層が主流で明らかに社会構造が一変してしまった。当然、塾や予備校では「他人を蹴落とせ」と、教えてきた。日本の若者に希望を持て、社会を見よ、世界へ飛び出せ、という方が無茶だろうと思う。

日本が少子化で人口が減り、放射能汚染で住める国土がなくなり、他国から文句言われ、政府が悪事を働いても文句一つ言わない従順国民を量産することに大成功したのだ。東北の被災地で暴動や略奪がなかったり、遺失物が出てきたり、世界は日本社会を善意の塊りであるかのように誤解したが、単に日本社会がヒツジの群れだからなのだと私は想う。恐らく山手線の電車の座席にiPadを置き忘れても、いつまでも周回した挙句、車庫で掃除人が発見して保管され、持ち主の手に戻るのだろう。これは美談のようであっても、決して真実の美談ではない。引いて言えば、無力感から人間性を喪失した結果であろう。東大の学部を2つ(理学部・法学部)も出た茂木健一郎氏が、数年前から偏差値に噛みついている。彼自身が偏差値秀才の趣きを持つ方だと感じてきたが、東大の卒業者から偏差値を否定して貰えることは、それこそ願ったり叶ったりなので素直に感謝したい(竹内)。


 ↑モギケン、偏差値に対しドッカーン

追記:偏差値秀才は、評価システムをアウトソーシングしてしまうので、自己の内面に評価システムを形成できないまま大人になる。だから終わりなき自他比較を繰り返すだけに留まらず、大学名(要は、偏差値の序列)で「人を見下す」ようになる。その結果、永遠に満たされる日はなくなるのである。安住の地は偏差値の上流であり、本人の成長によって得られる満足感ではない。異常であるが、これが「等身大」の日本の学校教育だ。否応なく選ばされたのだから気の毒だが、選んだのは紛うことなき本人である。