❏常に「ご破算で、ねがいましては・・」で始まる流儀
それは、全て日本人の「責任を負いたくない」の気持ちが根底にあるようだ。国民性かも知れない。現実はカケだとしても「責任を負う」経験を積み重ねない限り人の成長は見込めない。要するに、学校教育がドリルのような正・誤の判定だけに拘り過ぎて、肝心の人の成長を考えようとして来なかった。昔から「木を見て森を見ず」の格言があるが、視野狭窄的であったと感じる。入試の点数主義など、自分が判定すべきことを数字ごときに代行させてきた。さも、それが"公平である"かのように装い「ご破算で、ねがいましては・・」のリシャッフル流をフェアとするのは、「思い込み」であり「思考停止」だ。
❏米サイエンス・フェアの優勝者は大学に迎え入れられた
今はインテルの社名が冠されているが、まだ私が高校生の頃はインテル社は黎明期だったと思う。日本の電卓技術者が用途ごとに設計し直すのが面倒だから汎用のチップを発注した先がインテル社で、それが今のパーソナルコンピュータ(PC)のプロトタイプになったのだと理解する。昨日のブログと本日の公式ブログでは、米国内で1950年代に始まったサイエンス・フェアが、テクノロジー部門も取り込み、国際化されてインテルがスポンサーとなる"Intel ISEF(アイセフ)"へと進化してきた。私が学生時代には、米国人の優秀者は当然、米国の大学からは無条件で迎え入れられた。何しろ成績証明書以上に信頼できる実地の「能力証明書」が添付されているに値する「生ま身の人材」だから歓迎されて当然なのだ。しかし、日本では仮に「能力証明書」があったとしても別途、「入試の点数」が平等(?)な判定材料に求められた。
❏科学分野で実績を上げても評価されなかった理由
大学は研究するところだ。本来、就職するための通過点ではない。それで研究能力のある人間を優先的に入学させてやる配慮など米国なら「当然過ぎる」行為だ。それを日本は平気で「我慢」をさせ、およそ研究能力と全く無関係な受験勉強の成果を評価したのである。おぞましいことに日本の大学足るや、その程度の能力しか求めなかったことの動かぬ証拠だろう。
スポーツや芸術分野では多少、才能がモノを言うことに日本人は気づいていたのだと思う。特待生的な措置が、その証しの一面だ。だが、なぜ科学の世界は「才能」と無関係なのだろうか? 科学の研究に「才能」と「知識」のどちらが必要不可欠と思うのだろうか? 私はここで日本人は「才能」を評価することに対して忌避する悪感情が絡んでいるように感じられてくる。仮にそうだとしたら、日本人はとんでもない「勘違い」をしていると、私は指摘したい。
馬鹿なことをしてきたものだと思う。誰でも「才能」は伸ばすことができる。そして、その才能を伸ばすことこそが「教育の本分」なのだ。それを偏狭な人間が「才能」は特殊な人間が持つ力であって、誰でもが平等にできる受験勉強が公平だと考え、本来は秘めていたかも知れない人間の持つ才能の芽を散々、潰してきたのが日本の学校である。私は今、「才能の芽」と記したが、敢えて「才能の目」だと書き改めたい。こうイメージしてみたら、その手痛さが知れるだろう。日本の学校は生徒の眼を千枚通しで刺し貫いて潰していくごとき蛮行を40年間、続けてきたに等しい隠された暗黒社会だったのだ(竹内)。
付記:
天才は、99%の努力に僅か1%の閃きが加わったに過ぎない。天賦の才能が社会を明るく照らす存在であるのに、なぜ日本人が「天からのギフトをやっかんだ」のかを両目で然と見ておくべき。しかも、教科に優劣はない。国際バカロレアでは、英数国も理科・社会も、芸術も体育も、他の実技科目も優劣は一切ない。むしろ多様な特性を持つ科目が全人的コンピテンシーを高めていくことを目標にしている。ペーパー試験の覇者など、それこそ吹けば飛ぶ「紙切れ」のごとく軽薄だからだ。

↑国際バカロレアでは教科の比重は同等
それは、全て日本人の「責任を負いたくない」の気持ちが根底にあるようだ。国民性かも知れない。現実はカケだとしても「責任を負う」経験を積み重ねない限り人の成長は見込めない。要するに、学校教育がドリルのような正・誤の判定だけに拘り過ぎて、肝心の人の成長を考えようとして来なかった。昔から「木を見て森を見ず」の格言があるが、視野狭窄的であったと感じる。入試の点数主義など、自分が判定すべきことを数字ごときに代行させてきた。さも、それが"公平である"かのように装い「ご破算で、ねがいましては・・」のリシャッフル流をフェアとするのは、「思い込み」であり「思考停止」だ。
❏米サイエンス・フェアの優勝者は大学に迎え入れられた
今はインテルの社名が冠されているが、まだ私が高校生の頃はインテル社は黎明期だったと思う。日本の電卓技術者が用途ごとに設計し直すのが面倒だから汎用のチップを発注した先がインテル社で、それが今のパーソナルコンピュータ(PC)のプロトタイプになったのだと理解する。昨日のブログと本日の公式ブログでは、米国内で1950年代に始まったサイエンス・フェアが、テクノロジー部門も取り込み、国際化されてインテルがスポンサーとなる"Intel ISEF(アイセフ)"へと進化してきた。私が学生時代には、米国人の優秀者は当然、米国の大学からは無条件で迎え入れられた。何しろ成績証明書以上に信頼できる実地の「能力証明書」が添付されているに値する「生ま身の人材」だから歓迎されて当然なのだ。しかし、日本では仮に「能力証明書」があったとしても別途、「入試の点数」が平等(?)な判定材料に求められた。
❏科学分野で実績を上げても評価されなかった理由
大学は研究するところだ。本来、就職するための通過点ではない。それで研究能力のある人間を優先的に入学させてやる配慮など米国なら「当然過ぎる」行為だ。それを日本は平気で「我慢」をさせ、およそ研究能力と全く無関係な受験勉強の成果を評価したのである。おぞましいことに日本の大学足るや、その程度の能力しか求めなかったことの動かぬ証拠だろう。
スポーツや芸術分野では多少、才能がモノを言うことに日本人は気づいていたのだと思う。特待生的な措置が、その証しの一面だ。だが、なぜ科学の世界は「才能」と無関係なのだろうか? 科学の研究に「才能」と「知識」のどちらが必要不可欠と思うのだろうか? 私はここで日本人は「才能」を評価することに対して忌避する悪感情が絡んでいるように感じられてくる。仮にそうだとしたら、日本人はとんでもない「勘違い」をしていると、私は指摘したい。
馬鹿なことをしてきたものだと思う。誰でも「才能」は伸ばすことができる。そして、その才能を伸ばすことこそが「教育の本分」なのだ。それを偏狭な人間が「才能」は特殊な人間が持つ力であって、誰でもが平等にできる受験勉強が公平だと考え、本来は秘めていたかも知れない人間の持つ才能の芽を散々、潰してきたのが日本の学校である。私は今、「才能の芽」と記したが、敢えて「才能の目」だと書き改めたい。こうイメージしてみたら、その手痛さが知れるだろう。日本の学校は生徒の眼を千枚通しで刺し貫いて潰していくごとき蛮行を40年間、続けてきたに等しい隠された暗黒社会だったのだ(竹内)。
付記:
天才は、99%の努力に僅か1%の閃きが加わったに過ぎない。天賦の才能が社会を明るく照らす存在であるのに、なぜ日本人が「天からのギフトをやっかんだ」のかを両目で然と見ておくべき。しかも、教科に優劣はない。国際バカロレアでは、英数国も理科・社会も、芸術も体育も、他の実技科目も優劣は一切ない。むしろ多様な特性を持つ科目が全人的コンピテンシーを高めていくことを目標にしている。ペーパー試験の覇者など、それこそ吹けば飛ぶ「紙切れ」のごとく軽薄だからだ。

↑国際バカロレアでは教科の比重は同等