❏縫い目(シーム)のない現実世界
人間は、シームレスは現実世界に対し、人間の「都合」から境界線を設け、コントロールしている。実在しないのに人間の「都合」で境界線を引いている。例えば、地球上に赤道が引かれているワケではない。経度や緯度を引く線も同様である。

同様に、学校で教えている教科にも本来、境目はない。人間の都合で境界線を引いている。我々は、現実世界で起こっていることの本質を理解しようとする時、学校教育によって無惨にバラバラに解体された(fragmented)知識を再統合(デフラグ)する必要があるのだが、そのような配慮が現行の学校教育課程のカリキュラムでは全く為されていない。学校教育は、脳や人間性を歪めていると私は考えている。

私が進めている「探究学習」や「創作学習」は、一つのテーマを核に据えて、あらゆる知識断片、経験、感性・・これらを総動員して問題の解決や作品の創造に臨むため、デフラグ効果が期待できる。が、現行の学校教育は人間の心身をバラバラに分解していく「破壊行為」である。破壊行為に対して責任を自覚しないのは、余りに無責任である。この真実を見抜いている教員は、いるのであろうか?


↑シームレスは「縫い目のない」の意

❏学校教育だけでなく現実世界はシームレス
女性を見ていて感じるのは、ある時期まで化粧をすることは禁じられているのに、ある年齢を境に化粧をしないことが不自然になるように逆転する矛盾がある。同様、ある時期まで男女交際が「不純」と見られる一方で、結婚式当日は「ハネムーンベイビーを期待します」などと真逆な祝辞が飛び交うという現実がある。確かに社会的な責任を終える力などに変化が生じているのは確かであるが、両者の境目がそれほど明瞭というモノでもないと思う。

いつまでが学生で、いつからが社会人か・・という問題も、卒業式や入社式が目印にはなるのだろうが、ある日を境にして当事者の意識に変化は生じるのだとは思うが、掌を返すように現実が逆転するものでもないと思う。本来、責任が伴うことは学生時代も、定職を得てからも本質的には天と地が入れ替わってしまうほどのギャップがあるワケでもないと考える。

最近、学校が生徒や保護者からの信頼を失う不祥事が頻発しているが、なぜこのような対立構造が生じるのか不可解に感じる。なぜなら「いかなる教員も以前は生徒であったことがある」という事実が必ずあるにも拘わらず、教員が生徒の気持ちを慮(おもんばか)ることができなくなるカラクリが不可解でならない。かつて生徒だった頃の自分を何処に置き忘れてしまうのだろう?なぜ魂を売り渡してしまうのだろうか、と私は気が知れないのである(竹内)。

付記:私の大学時代は企業や研究所で専門の指導を受けながら大学を卒業したため、何処までが「学生時代」で何処からが「職業生活」であったのか判然としない。私自身は、これで大正解だったと感じている。何しろ学校で学ぶことの全てが社会や実務の中に関連づけていけたからだ。このような実践的な学びを若い時代に体験できなかったら、私は今のようには力をつけてきてないだろうな・・とは思っている。