❏中央集権的「机上の論理」が虚構を生む
平均値はデータを計算すれば求まるが、その平均値に当たる事象が実在するとは限らない。これが、霞が関をはじめとする中央にいて机上で考えている者には現場にいる者が目にしている現実が解らないし、多くの場合、解かろうともしない。私は都庁の本庁舎に異動になり、数年も経つと出先機関の現場の感覚を失っていくことが解り不安を感じた経験がある。が、シラを切れる厚顔で権威に溺れる者が、省庁から企業に至るまで、少なくはないのだろう。内実、心中は不安なはずだ。だから虚勢を張るしかなくなり、間違った意思決定でもゴリ押ししてしまう悪循環が始まる。これが残念かな、日本社会の随所で見られる「裸の王様」症候群であり不幸の始まりだ。
私が都庁からJICAでタイ国政府機関の下水道普及プロジェクトに2年間、専門家として派遣されたのは、バンコクの運河が水質汚染されていて汚いから下水道を普及させるという目的であった。ところが、私が現地で観察すると、真っ黒いはずの運河に魚影がタンマリとある。日本のように酸欠で魚が浮く被害もない。私が現地で水を汲んで20℃と30℃でインキュベートすると、30℃の条件でのみ3日で黒くなることが判明した。熱帯に特有のカビ(水生菌)が生えるからである。菌糸が断裂して黒い沈殿ができる。食堂廃水中の栄養分を吸収し、水を黒く着色し、熱帯の強い日差しから水生生物を守る(特に、硝化細菌は可視光線にも抑制される)。要するに、"サングラス"役を果たしていたのだ。国家プロジェクトを根底から揺るがすような発見である。
中央官庁の机上の思考では、肝心な熱帯生態学の新しい知見を発見するチャンスも逃す。しかも国民の血税をドブに捨て、現地からも本当の意味では感謝されない。人類の進歩にも貢献しない。せめて現場の声を聞けば良いのだが、往々にして「勘違い」したプライドが邪魔をし、徹底的に無視する。日本では、このような展開になることが少なくない。対して英国では、実務現場が「常に」第一発見者になるという大原則があることを文書にも明記して認め、中央集権的な意思決定が暴走してしまわないように配慮している。このままでは、日本人の優秀さが本当の意味での優秀さだと言い難い。仮に間違えたらそれを訂正できる「勇気」が伴ってこそ、真の優秀さだと私は思っている。
❏バランスを取りながら成長していく人間像
そもそも学校教育は、人が成長していく姿をイキイキと描いた上で設計してきたのだろうか? それとも入学試験の延長線上で机上の作業として練られてきたのであろうか? 私は受験勉強の覇者が自分が優秀だと酷く勘違いをしたまま要職についてきたのではないかと疑っている。実際、私は教授・准教授と呼ばれる人が「受験勉強しか知らない」と口にする姿に遭遇してきた。そういう机上の空論しか知らない人はいくら一流の大学院で博士課程まで終えていても、現実の問題に対処していく力量を欠いているから本人にも周囲にも不幸な事態である。理屈の上では、人は何でもできるようにあらゆる分野の知識や技能を満載すれば良いと錯覚しがちであるが、生身の人間が示す現実はそうではない。むしろ、そんな満腹状態の飽食人間ほど成長は停止する。
現場の第一線に立っていて気づくのは、むしろ足りないことを自覚した生徒ほど急激な成長を始め、自らが変っていく喜びを体得し始めていく姿だ。それはちょうど、小さな子供が自転車に跨って、バランスを保ちながら前へ進むコツを体得していく姿と私は被る。これが、現場にいる人間の感性だ。「机上の論理」と「現場の現実」とは、まるで正反対だと感じる。それを実務現場に立たない者は不幸にも気づけない。しかも、時に現場を邪魔するように介入してくることすらある。彼らは自分は何も知らないのに、自分の知らない世界があるという事実すら認めたくないように私には映る。情けないことだ。成長のダイナミズムが生み出せなければ、学校教育に値しない(竹内)。

↑自転車のジャイロ・ダイナミズム
平均値はデータを計算すれば求まるが、その平均値に当たる事象が実在するとは限らない。これが、霞が関をはじめとする中央にいて机上で考えている者には現場にいる者が目にしている現実が解らないし、多くの場合、解かろうともしない。私は都庁の本庁舎に異動になり、数年も経つと出先機関の現場の感覚を失っていくことが解り不安を感じた経験がある。が、シラを切れる厚顔で権威に溺れる者が、省庁から企業に至るまで、少なくはないのだろう。内実、心中は不安なはずだ。だから虚勢を張るしかなくなり、間違った意思決定でもゴリ押ししてしまう悪循環が始まる。これが残念かな、日本社会の随所で見られる「裸の王様」症候群であり不幸の始まりだ。
私が都庁からJICAでタイ国政府機関の下水道普及プロジェクトに2年間、専門家として派遣されたのは、バンコクの運河が水質汚染されていて汚いから下水道を普及させるという目的であった。ところが、私が現地で観察すると、真っ黒いはずの運河に魚影がタンマリとある。日本のように酸欠で魚が浮く被害もない。私が現地で水を汲んで20℃と30℃でインキュベートすると、30℃の条件でのみ3日で黒くなることが判明した。熱帯に特有のカビ(水生菌)が生えるからである。菌糸が断裂して黒い沈殿ができる。食堂廃水中の栄養分を吸収し、水を黒く着色し、熱帯の強い日差しから水生生物を守る(特に、硝化細菌は可視光線にも抑制される)。要するに、"サングラス"役を果たしていたのだ。国家プロジェクトを根底から揺るがすような発見である。
中央官庁の机上の思考では、肝心な熱帯生態学の新しい知見を発見するチャンスも逃す。しかも国民の血税をドブに捨て、現地からも本当の意味では感謝されない。人類の進歩にも貢献しない。せめて現場の声を聞けば良いのだが、往々にして「勘違い」したプライドが邪魔をし、徹底的に無視する。日本では、このような展開になることが少なくない。対して英国では、実務現場が「常に」第一発見者になるという大原則があることを文書にも明記して認め、中央集権的な意思決定が暴走してしまわないように配慮している。このままでは、日本人の優秀さが本当の意味での優秀さだと言い難い。仮に間違えたらそれを訂正できる「勇気」が伴ってこそ、真の優秀さだと私は思っている。
❏バランスを取りながら成長していく人間像
そもそも学校教育は、人が成長していく姿をイキイキと描いた上で設計してきたのだろうか? それとも入学試験の延長線上で机上の作業として練られてきたのであろうか? 私は受験勉強の覇者が自分が優秀だと酷く勘違いをしたまま要職についてきたのではないかと疑っている。実際、私は教授・准教授と呼ばれる人が「受験勉強しか知らない」と口にする姿に遭遇してきた。そういう机上の空論しか知らない人はいくら一流の大学院で博士課程まで終えていても、現実の問題に対処していく力量を欠いているから本人にも周囲にも不幸な事態である。理屈の上では、人は何でもできるようにあらゆる分野の知識や技能を満載すれば良いと錯覚しがちであるが、生身の人間が示す現実はそうではない。むしろ、そんな満腹状態の飽食人間ほど成長は停止する。
現場の第一線に立っていて気づくのは、むしろ足りないことを自覚した生徒ほど急激な成長を始め、自らが変っていく喜びを体得し始めていく姿だ。それはちょうど、小さな子供が自転車に跨って、バランスを保ちながら前へ進むコツを体得していく姿と私は被る。これが、現場にいる人間の感性だ。「机上の論理」と「現場の現実」とは、まるで正反対だと感じる。それを実務現場に立たない者は不幸にも気づけない。しかも、時に現場を邪魔するように介入してくることすらある。彼らは自分は何も知らないのに、自分の知らない世界があるという事実すら認めたくないように私には映る。情けないことだ。成長のダイナミズムが生み出せなければ、学校教育に値しない(竹内)。

↑自転車のジャイロ・ダイナミズム