❏受験の覇者は価値を生産できるか?
スーパーサイエンスコースは、高校生に「卒論」を課す方針である。ただし、その要求水準は生徒を見て判断する。意外かも知れないが、「伸び代」を感じさせる生徒に対しては原則、手を加えない。逆に、危なっかしいと思しき生徒に対しては、私は本人の「お手本」となるように、かなり手を加える(指導しなければ、指導者として失格だ)。従って、アウトプットだけをみたら成長著しい生徒の卒論の方がみすぼらしく、成長が心許ない生徒の卒論の方が上等に見えるはずだ。私の願いは、私が手心を加えた卒論であっても、いつか卒業して自分の学びに転じて欲しいと想いだ。そういう学び方があっても構わないと思う。だが、雁字搦めな「機械的な公平感」に慣れ親しんできた多くの教員には、私の想いが理解して貰えないようだ。塾講師が私ではなく、私が指導した生徒の方を批判した例もある。私は、卒業生の「行く末」を見つめている。

これからの高校教育では、研究活動または創作活動が求められる。当然、他人と同じコトをする授業や試験からはオリジナリティは生まれ得ない。問題練習や定期試験、大学入試ですら、失格だ。オリジナリティがなければ、研究発表会の応募も、創作作品のコンテスト応募すらできない。つまり既に正解があるような問いでは、当コースの要件を満たさないのである。同様、他の作品をお手本にしたようなモノマネでは応募失格なのだ。これが当コースだけでなく、今後の高校教育のスタンダードになる。文科省も、その方向に動いているとみる。だから近年、高校生の研究発表会やコンテスト、コンクールの類が雨後の筍のように目白押しなのだ。これは間違いなく、文科省が各方面を通じ水面下でこのような動きを奨励してきたはずだ。受験の覇者は単に、学力の一端を保証しているに過ぎない。それが直ちに豊かな才能や人間性を保証しない。経験的には、私はむしろ反比例していると思えるが、一日本人として全日本人に意見を問いたい!

❏答えのある学びは消えていく
ちょうど、マントル対流の力で大洋底が吸い込まれていくように、もともと基礎学力は基礎や土台にあるだけで、アウトプットの資格がない。試験の点数や成績の価値も、同様である。大学名すら価値が薄くなっていく。大学名が当然のこと、研究や創作、発見や発明をしてくれるワケではないからだ。良く考えたら判りそうなことだが、固定観念を持つとそんなコトですら無明にされてしまう。従来の学びが消えてなくなる訳ではない。が、見えない低次元へと送られる。高校課程の基礎の全てを一流のプロでも使っている訳ではない。常に必要なのは塾や予備校、高校の先生くらいだろう。でも、彼らは実務社会に生きる実質、実務社会のプロではない(レッスン・プロに当たる)。このネジレ現象が放置されたままで、「受験」だけが産業化してしまい、日本の学校教育も一般社会も、酷く歪められてきたのがコトの真相だ。結果的に「お勉強」ごっこで来た能なしが組織のトップに君臨してきたので、日本丸もそろそろ転覆寸前であろう。誰の目にも、明らかではないのかな?


 ↑地中深く沈み込む古い"不要品"

「お勉強」ごっこの代わりに来るのが、本来の社会での業務に直結する研究発表やコンテストでの実績であり、やがて拡大して行って、作品の発表、新製品の開発、新企画プロポーザル、実用新案や特許の取得、意匠や商標の登録、起業、NPO設立、プロデビューなどとなる。今までは、受験勉強して点数を上げて、真の学びのないまま官公庁や大企業で既得権の地位に甘んじてきた。その挙句が、まるで使いモノにならない東大教授、東芝の歴代社長、東電、シャープ・・数え出したらキリがないはずだ。間違って君臨している権威者の裏にホンモノが息づいていた。恐竜の時代が終わり、哺乳類の時代になるべき時が近づいている。人間が賢ければ、次に来る巨大隕石によるインパクトに頼らなくても良いが、然るべき層に身を引いて貰えない場合には、フクシマに続き天の裁きにより怒りの鉄柱が下ることも止むを得まい。そうなって欲しくはないが・・誰が日本を人の住めない国土にさせていくのだろうか(竹内)。