❏移行期には1つの組織で2つのプログラムが同時進行する
そして移行期が終わる頃には、スッカリ入れ替わることになる。一時的に2つの相反するプログラムが同一の組織の中で走ることはあり得る。が、各々、担当する者は異なるはずである。なぜなら両立はし難いからである。これが今、日本で進展中の教育改革である。表向きは外からは見えない。が、ネットを探し歩けば奥の間に隠れている「代替プログラム」が見えてくる。
では、なぜ今まで古いプログラムが走っていたのか? 答えは簡単である。ベストな方策がなかったから、空いた箇所に「偏差値による受験指導」というピースがピッタリ嵌ってしまったのだろう。余りにピッタリと嵌ってしまったし、しばらくの間、誰がどう舵取りしても勝手に右肩上がりで成長する時代だったので特段、ボロも露見しなかった。それで延々と続きてきた訳だ。その間、日本という国は自動車に喩えたならば、運転手が不在で動力源のコントロールも不能のまま、惰性で走行してきたのである。そんな「運任せ」の無軌道さが未来永劫、続く道理はない。
❏なぜ古い体制のままではダメなのかの問いへの回答
簡潔明瞭だ。それでは、真の「学び」の体裁になっていないからだ。説明を加えよう。①決まった授業をする、②試験を行う、③成績をつける。④卒業させる。どれも形式的には進む。が、どこに学びがあるのだろうか? それは生徒も教員も時間を浪費しただけに過ぎない。要は騙されてきたのだ。生徒は「教育を受けている」ものだと、教員も「教育をしている」ものだと、錯覚をしてきただけのこと。社会もそれを平気で容認してきた。皆が等しく同罪である。
むしろ一部の子供の方こそ「おかしい」と、気づいていたはずだ。私も、その一人だったからである。が、皆、ダンマリを決め込んでしまった。特に、運良くペーパー試験で点が採れて成績が良かった者ほど皆、口を噤んてきた筈だ。嘘をつき続けると、終いに何が真実か分からなくなるのと同様、そのような体制が40年間も続いてしまった。福島原発の爆発事故は、3つ目の原爆投下に値する警告だと私は解釈している。それも日本の国土としては最も東寄りの海側で起こった。が、懲りない面々がいるようだ。それにも増して愚かなら人が住めない「焦土」と化していくだろう。

↑『裸の王様』の一場面から
❏「大学へ合格するためには仕方ない」という欺瞞
全て、一つの欺瞞を容認したことから、この国の不幸は始まった。最大の犠牲は「受験体制」に飲み込まれた高校だ。最大の成長期を受験と取り引きしてしまった。それは「身売り」だと言っても過言ではない。本来、高校生に何をどう学ばせるか考えるべきであるのに、大学受験で置き換え、それで日本の社会を設計してきてしまった。その大きなツケが今になって出てきている。その歪みが社会の随所で「血飛沫」となって噴き出している。それが「裸の王様」どもには見えないのだろう。おいおい「人身事故」とは何て他人事な言い草なんだ? 人が生きたままズタズタになって自ら死んで行くんだぞ。受験体制を咽むことの代償は、人が人でなくなること。まごころを悪魔と取り引きする行為だ。私は不毛な受験勉強を回避して来たが、それでも生きてこれた。博士号も取得し、英語も支障なく使えている。狡賢くないのが自慢だ。
一人ひとりが決めた「大学へ合格するために仕方ない」受験勉強というのは、受験に合格したら消えてなくなる時限勉強だ。英語力、一つとっても、受験時がピークでそれ以降は、自動消滅になる。これは「教育の効果が生じるようには設計されてない」証拠だ。だから私は、教育の効果が発揮されるよう設計する「教育デザイン室長」を名乗っているのだ。そして実際、私が指導した生徒は、英語に立ち向かっていく自信を獲得していく。なぜだろうか? 私は他の教員がするようには、教えてはいない。私が自分が生きてきた「生き方」を伝えるように伝えているのだ。それで少なくとも成長が始まる。そこから先は、個々の生徒の持ち分というのが私の考え方だ。教員としての私の役目は、生徒が歩みを始めさせること、途中で生徒を観察し、軌道修正を図ること、そして最後は生徒を信じて送り出すこと。これに尽きる(竹内)。
そして移行期が終わる頃には、スッカリ入れ替わることになる。一時的に2つの相反するプログラムが同一の組織の中で走ることはあり得る。が、各々、担当する者は異なるはずである。なぜなら両立はし難いからである。これが今、日本で進展中の教育改革である。表向きは外からは見えない。が、ネットを探し歩けば奥の間に隠れている「代替プログラム」が見えてくる。
では、なぜ今まで古いプログラムが走っていたのか? 答えは簡単である。ベストな方策がなかったから、空いた箇所に「偏差値による受験指導」というピースがピッタリ嵌ってしまったのだろう。余りにピッタリと嵌ってしまったし、しばらくの間、誰がどう舵取りしても勝手に右肩上がりで成長する時代だったので特段、ボロも露見しなかった。それで延々と続きてきた訳だ。その間、日本という国は自動車に喩えたならば、運転手が不在で動力源のコントロールも不能のまま、惰性で走行してきたのである。そんな「運任せ」の無軌道さが未来永劫、続く道理はない。
❏なぜ古い体制のままではダメなのかの問いへの回答
簡潔明瞭だ。それでは、真の「学び」の体裁になっていないからだ。説明を加えよう。①決まった授業をする、②試験を行う、③成績をつける。④卒業させる。どれも形式的には進む。が、どこに学びがあるのだろうか? それは生徒も教員も時間を浪費しただけに過ぎない。要は騙されてきたのだ。生徒は「教育を受けている」ものだと、教員も「教育をしている」ものだと、錯覚をしてきただけのこと。社会もそれを平気で容認してきた。皆が等しく同罪である。
むしろ一部の子供の方こそ「おかしい」と、気づいていたはずだ。私も、その一人だったからである。が、皆、ダンマリを決め込んでしまった。特に、運良くペーパー試験で点が採れて成績が良かった者ほど皆、口を噤んてきた筈だ。嘘をつき続けると、終いに何が真実か分からなくなるのと同様、そのような体制が40年間も続いてしまった。福島原発の爆発事故は、3つ目の原爆投下に値する警告だと私は解釈している。それも日本の国土としては最も東寄りの海側で起こった。が、懲りない面々がいるようだ。それにも増して愚かなら人が住めない「焦土」と化していくだろう。

↑『裸の王様』の一場面から
❏「大学へ合格するためには仕方ない」という欺瞞
全て、一つの欺瞞を容認したことから、この国の不幸は始まった。最大の犠牲は「受験体制」に飲み込まれた高校だ。最大の成長期を受験と取り引きしてしまった。それは「身売り」だと言っても過言ではない。本来、高校生に何をどう学ばせるか考えるべきであるのに、大学受験で置き換え、それで日本の社会を設計してきてしまった。その大きなツケが今になって出てきている。その歪みが社会の随所で「血飛沫」となって噴き出している。それが「裸の王様」どもには見えないのだろう。おいおい「人身事故」とは何て他人事な言い草なんだ? 人が生きたままズタズタになって自ら死んで行くんだぞ。受験体制を咽むことの代償は、人が人でなくなること。まごころを悪魔と取り引きする行為だ。私は不毛な受験勉強を回避して来たが、それでも生きてこれた。博士号も取得し、英語も支障なく使えている。狡賢くないのが自慢だ。
一人ひとりが決めた「大学へ合格するために仕方ない」受験勉強というのは、受験に合格したら消えてなくなる時限勉強だ。英語力、一つとっても、受験時がピークでそれ以降は、自動消滅になる。これは「教育の効果が生じるようには設計されてない」証拠だ。だから私は、教育の効果が発揮されるよう設計する「教育デザイン室長」を名乗っているのだ。そして実際、私が指導した生徒は、英語に立ち向かっていく自信を獲得していく。なぜだろうか? 私は他の教員がするようには、教えてはいない。私が自分が生きてきた「生き方」を伝えるように伝えているのだ。それで少なくとも成長が始まる。そこから先は、個々の生徒の持ち分というのが私の考え方だ。教員としての私の役目は、生徒が歩みを始めさせること、途中で生徒を観察し、軌道修正を図ること、そして最後は生徒を信じて送り出すこと。これに尽きる(竹内)。