❏何でもできるのは、何もできないに等しい
日本の学校は盲目的に「オールラウンド・プレイヤー」を作ろうとしている。大した「考えもなし」に・・だ。教員は必ず通信簿に「苦手科目を克服しましょう。」と記す。これまた、ワンパターン。おそらく何も考えていない。私は、大学院の狭い領域の専門的に掘り下げた研究も、公務員試験のような広く浅い百科事典的な学びを、自分の欲求に合わせて交互に繰り替えてしてきた。どちらか一方では真に有効ではないのだ。それを一方だけを良しと決めつけるのはどうかと思う。正直、私は理系のくせに理系科目で点が稼げない。だから国公立大学に向いていた。私立大学は、私にはリスキーで受けなかった。国語・社会で稼ぐタイプだから。でも、やりたいのは自然科学だったから、仕方がない。修士課程を終えた後の公務員試験の受験も自ら学びのバランスを補正したかったので大して苦痛ではなかった。

外国では、一般に若者に対して、こうアドバイスする習わしだ。「得意科目を伸ばしなさい。苦手科目は・・」というと、何と「人と協力しなさい」なのだ。まさに上越教育大学の西川純教授の提唱する『学び合い』の精神とも重なる。彼は何とできない子は、できる子の答えを写しても構わない・・とすら口にしている。私自身も生徒に科学の研究指導をする際、ポスターや発表要旨を自分が見本を率先して見せることがある。無論、相手(生徒の特性)を見ての判断だ。これを一律にダメだと決めつけているような教育者もいて、横から口を出すことがあるので非常に困る(ちなみに塾関係者)。生徒を壊したいのか・・と文句を言いたい。私は、生徒一人ひとりを見て、瞬間的に判断している。一律の判断しかできないような指導者は、「人を見る目」を養って来なかった証拠だと、私にはそう思える。

❏試験の点数や成績で人を判断する人は成長できない
国家公務員試験、東大入試、国立高専の定期試験・・この3つには「席次主義」がある。常に「何位」かが決め手となり、出世や分属、推薦が決まっていく。そしてお互い、どちらが順位が上か下か分かっているらしい。つまらない人生だと私は思う。私は高専で教授をしていた頃、事務から配られてきた「取り扱い注意」の朱色のゴム印を押された封筒をほとんど開けていない。いわゆる全校生徒の成績表だ。学生には公表していないとの事務方の話だったが、学生には割れている。いつか就学旅行で台湾への引率のお手伝いで同行した時、添乗員の人が学生同士の話題がもっぱら席次だったので驚いていた。そんなに成績順を学生同士が気にする学校なんて、他所で聴いたことがないのだろう。

いっそ皆、顔の代わりに数字を顔に貼り付ければイイのに・・と思う。東大も入学して早々、シケタイ(試験対策委員会)が自主的に結成されるそうだ。全国でも世界でもそんな大学なんて、聞いたことがない。今や東大だけでなく京大や他大学まで感染拡大しているらしい(大学生相手の塾稼業はいかが?)。国家公務員と国際協力の業務を分担したことがあるので彼らが賢いことは認めるが、いかにせん現場経験がない。だから勢い「机上」の論理で進める。「受験勉強」の延長だ。信じても貰えないかも知れないが、JISの試験方法や設計指針で間違いが残ったままで、本丸を直さず外堀で「帳尻合わせ」する始末だ。これでは何処に最高学府で学問を学ぶ意義があるのだか定かでない。


↑人で入るか点で入るか(朝日グローバル)

米国ハーバード大学と日本の東大入試を朝日新聞・日曜版の『朝日グローバル』で論じていたが、答えは歴然としている。人を点数に選ばせるような下衆な真似は一流国はしない。日本社会では韓国の統一教会が行うコンピュータの配偶者選定や合同結婚式を「キモい」と感じるであろうが、西欧の視点からしたら日本の点数による合否判定や4月1日の合同入社式など、統一教会のやり方と一歩も引けを取らないキモさだが、慣れてしまっているので気づかないのである。平素から人を見る経験を積まずに、人を判断することはできない。日本には「推薦状」を初めとして、そのような「人の成長を仕掛ける」という文化的な素地が欠落しているのである(竹内)。

付記:人が人を見るから、教育が成り立つのだ。数字に教育を任せたが最後、人は機械と大差ない。それを「ひとでなし」と言う。気の毒なのは、生徒や学生だけではない。私にはむしろ「教員こそ育たない」から気の毒に思えてならない。日本の学校には「教員が成長する場」がないのだ。そして、教員が成長しなくて、どうして生徒や学生が育てられるのか?入学時に人が判定するからこそ、欧米では卒業するまで見守りたくなるものだ。それが、「教育者」というものだ。日本の学校は、入学から卒業に至るまで全ての判定プロセスを点数に委託している。客観とか公平を理解できていない。これでは「人間不在」なのだ。