❏「補助輪」に頼った生き方
ずっと「補助輪」の付いた自転車に乗っていたいだろうか?確かに補助輪がついていれば倒れない。倒れる心配はないのかも知れない。束の間は、安心できるのだろう。しかし、バランスを保ちつつ前へ進むこと、車体を横に方向けながらカーブを曲がるコツを体得したら、同じでいられるだろうか? 圧倒的に「補助輪」なしの自転車の方が使い勝手が良い。誰もが同意することであろう。当然のことだ。

だが、殊、日本人の社会生活のことになると、途端に思考停止に陥ってしまうのだ。私がここに例に出した「補助輪」と言うのは、例えば「一流大学」とか「有名企業」とかの類を指す。が、しかし、ここで意味する「一流」とか「有名」の正体って何なのだ。言葉の定義をマトモに考えてみたことがあるのだろうか?冷静になって、もし自分だったら、恥ずかしくなって赤面してしまう。寄らば「大樹」は、「補助輪」のことを指す。

例えば、天文学を学びたいのなら、それが学べる大学は限られるから選ばなければならないであろう。また、大きな組織の中で一度、働くことを経験したい・・という動機も合理性や説得力がある。が、単純に「一流」とか「有名」に拘るのは、その実、他人の目を意識していることの証拠であり、他人の評価をもってしか自分を評価できないことの何よりの証明であり、恥ずかしくて仕方がない。そんな他人に依存する人生は、学校の成績や他人の評判を気にする「学校」で植えつけられたものでしかない。洗脳だ。

❏日本の無駄「9割」を捨てて、再出発しよう
日本における「学校」は、日本人幼少期から「マインド・コントロール」する役目を果たしてきた。「泣く子と地頭には勝てない」という表現が日本にはある。「地頭」という制度から判断して、鎌倉時代には定着していた。英文で表現すると、例えば、"Nobody can win someone who won't listen to reasons why."ほどの意味であろう。そうする理由を聞かず「問答無用」ならば議論は成り立たない。「何卒、よろしくお願い申し上げます」の意味する中身がサッパリ示されなくても通用してしまう曖昧で脆弱な(だが心地良い)言語と、"Thank you very much indeed for~"と、何に対して感謝の意を表明しているのか記さないと一文も完結しない(面倒で厄介な)理詰め言語との違いが及ぼす作用は想像を超える。


 ↑谷本真由美著(2015年、PHP)

日本人と日本人がほとんどで形成される日本社会は、知らないうち「暗黙の了解」の下、無駄が累積し、それが9割を越していると私は実感している。MS-DOSから騙し騙し積み上げてきたWindowsのシステムがゴミのようにたくさんのファイル残骸を知らないうちに貯めこむ・・そんな閉塞社会と思う。無論、戦争や大災害は現行のゴミが蓄積した社会をリセットする効果はあると私は推察し得る。が、そうなりたいだろうか? 黙っていれば、そういう方向へと導かれるだろう。でも、また先の戦後のように、また50、60年のスパンで繰り返される。それよりも自分たちの自らの発意でステップ・アップしようではないか? 今がその意を決すべき時だと私は感じている(竹内)。

追記:私は国際協力の2年間の派遣業務で日本を離れたことがあります。日本へ帰る時、成田の上空に近づくとドンヨリとした空気に日本の国土が包まれていることに気づきました。それが、日本を包む閉塞感です。でも、誰が日本を変えられるのですか? あなたは北朝鮮を見れば、北朝鮮の国民が自分たちで変えなければならないと捉えているでしょう。無論、命掛けで険し過ぎる道ですが、日本は声にしても生命は奪われません。その国のことを、その国以外のどの国の人が変えられるのですか? 無理です。私は一度、英国へ家族で移民しました。でも私は気づいたのです。その国を変えることができるのは、その国に生まれた国民だ・・と。だから「自分が生まれた国」へ対する責任を果たすため私は日本へ帰ってきました。よもや自分がそんな進路を選択するとは到底、考え及びませんでしたが・・。

だから私は、この国で生まれて死んで行った人の気持ちを汲み、これから生まれてくる人のことを想い毎日、発言し行動しています。人がどう思うかは気に掛けていません。ただ賛同してくれる仲間が一人でも欲しいと思います。ただ声(文字)に出してくれるだけで構いません。それがなかったがため、日本は先の戦争へと突入して行ってしまったのだと思います。粘りましょう!