❏理科室を半日、英語漬けにしてみた成果
昨日、英語のネイティブ・スピーカーに理科室に6時間弱、滞在して貰い、生徒2名と教員2名が「英語漬け(イマージョン)」になった。そのことから得られたことを記しておきたい。薄々は感じてはいた。だが、正しい英語の習得法は自動車の運転と同様、無意識の領域へ落とし込まないと実用にならない。国民は英語の学者になるワケではないのだから、英語はもう「実技科目」とすべきだ。体育や音楽や美術、書道や工作に近い。エンジンや交通法規をいくら学んでも、運転できるようにはならないように、英語も訳読や文法を繰り返しても、モノにならないには道理がある。このままでは初代文部省英語顧問だったハロルド・パーマー博士が落胆して以降、この様子だと百年近くも迷走を続けてしまうことになる。
昨日の理科室で起こった変化を公式ブログに『外国人教員とグローバル・サイエンス空間を創出』と題する記事を投稿した。昨日の生徒の見せた変化の観察と自分自身の経験から、英語運用力のプロセスが2つに分けられると気づいた。脳が英語モードに切り替わると、「無意識」の領域が働き出すことが分かる。例えば、ペドロをバス・ターミナルへ迎えに行き、少し英語を話し出し、コンビニに立ち寄ると店員に英語で話し掛けてしまいそうになるのを意識して阻止しなければならない。英語モードのスイッチが入るとそうなるのだ。英語を使う時、試験問題を解くように頭で英語を使っているのではないことを自覚する。
❏暗い「倉庫」から目的の品を見つけるための「付箋」
日本の学校で行われている英語教育は、「語学教育」の定義に当てはまらない。教科教育の一つとして「英語」を当てはめているだけのこと。だから私は「日本人は英語を教わってきていない」と断言する。できなくて当然だ。だから「英語が使えるようにならないと嘆くこと」自体が日本の英語教育村の無知無能さを曝け出すことなので恥ずかしい。そう嘆いている関係者は「語学教育」の何たるかを知らないのだと案じる。大半の日本人は、日本以外の国、例えば、私の知る限りタイでも中国でも韓国でも世界中、どこでも行われている英語教育が日本で行われている英語教育とは違うことは周知されていないのが残念だ。責任者はキチンと視察したのだろうか?
使える英語は何処に収納するのかと言うと、脳の「無意識」活動野である。それは、ドラえもんの例えるなら、それは「四次元ポケット」だろうか。暗い倉庫内に格納しておくような状態である。従って、咄嗟の時に探し出せるようにキュー(頭出し)として目印の「付箋」をつけておく必要がある。それが、どこような状態でその単語や表現を用いたか背景ごと経験値を積み上げていく作業であろう。ここが、決定的に入試英語と違うのだ。それは状況次第ではTOEICでも同様。英語を実用レベルで用いている人はTOEICを受けても相応のスコアが期待できる。しかし、その逆で、TOEICが満点でも英語が使えない人が出ても「無意識」を使っていないため当然のことなのだ。

↑ドラえもんの四次元ポケット
❏英語教育を「教科」として「強化」する過ち
英語運用力を議論する場合、検定試験の級だとかスコアに頼り過ぎるのは、日本人が心底、自主性を喪失した国民であることを示唆する。所詮、英語運用力を高めようと論じているように偽装されてはいるが、その実、受験偏差値に依存している時代と何ら変わらない。40年間もの受験体制に置かれてきた結果、すっかり思考力を喪失してきた所作かと疑わざるを得ない。
英語運用力を高めたいのなら、議論すべき論点は検定試験の級とかスコアではない。言葉を使うには「無意識」領域に落としこむべき手続きを「教科」という「意識」領域に晒そうとしているように思える。果たして、日本の英語教育関係者は、英語ネイティブと真摯に話し合いしてきた経緯があるのだろうか? それならば、とうの昔に問題は改善されてきたはずだと思う(竹内)。
付記:英語運用力は、次の2つの成長段階があると経験的に感じている。1)英語を意識しないで内容だけを掴むようになる段階(日本の英語教育は、英語を意識させようとしているから方向性が真逆)、2)英語の表現を無意識の倉庫に収納し、必要に応じて取り出せるようになる。その時に検索しやすくする「付箋」の役を果たすのが、その言葉と対を為す内容(エピソード)や感情、行動など付帯する条件である。英語教育プログラムを組むには、これらの条件に即した工夫が望まれる。
昨日、英語のネイティブ・スピーカーに理科室に6時間弱、滞在して貰い、生徒2名と教員2名が「英語漬け(イマージョン)」になった。そのことから得られたことを記しておきたい。薄々は感じてはいた。だが、正しい英語の習得法は自動車の運転と同様、無意識の領域へ落とし込まないと実用にならない。国民は英語の学者になるワケではないのだから、英語はもう「実技科目」とすべきだ。体育や音楽や美術、書道や工作に近い。エンジンや交通法規をいくら学んでも、運転できるようにはならないように、英語も訳読や文法を繰り返しても、モノにならないには道理がある。このままでは初代文部省英語顧問だったハロルド・パーマー博士が落胆して以降、この様子だと百年近くも迷走を続けてしまうことになる。
昨日の理科室で起こった変化を公式ブログに『外国人教員とグローバル・サイエンス空間を創出』と題する記事を投稿した。昨日の生徒の見せた変化の観察と自分自身の経験から、英語運用力のプロセスが2つに分けられると気づいた。脳が英語モードに切り替わると、「無意識」の領域が働き出すことが分かる。例えば、ペドロをバス・ターミナルへ迎えに行き、少し英語を話し出し、コンビニに立ち寄ると店員に英語で話し掛けてしまいそうになるのを意識して阻止しなければならない。英語モードのスイッチが入るとそうなるのだ。英語を使う時、試験問題を解くように頭で英語を使っているのではないことを自覚する。
❏暗い「倉庫」から目的の品を見つけるための「付箋」
日本の学校で行われている英語教育は、「語学教育」の定義に当てはまらない。教科教育の一つとして「英語」を当てはめているだけのこと。だから私は「日本人は英語を教わってきていない」と断言する。できなくて当然だ。だから「英語が使えるようにならないと嘆くこと」自体が日本の英語教育村の無知無能さを曝け出すことなので恥ずかしい。そう嘆いている関係者は「語学教育」の何たるかを知らないのだと案じる。大半の日本人は、日本以外の国、例えば、私の知る限りタイでも中国でも韓国でも世界中、どこでも行われている英語教育が日本で行われている英語教育とは違うことは周知されていないのが残念だ。責任者はキチンと視察したのだろうか?
使える英語は何処に収納するのかと言うと、脳の「無意識」活動野である。それは、ドラえもんの例えるなら、それは「四次元ポケット」だろうか。暗い倉庫内に格納しておくような状態である。従って、咄嗟の時に探し出せるようにキュー(頭出し)として目印の「付箋」をつけておく必要がある。それが、どこような状態でその単語や表現を用いたか背景ごと経験値を積み上げていく作業であろう。ここが、決定的に入試英語と違うのだ。それは状況次第ではTOEICでも同様。英語を実用レベルで用いている人はTOEICを受けても相応のスコアが期待できる。しかし、その逆で、TOEICが満点でも英語が使えない人が出ても「無意識」を使っていないため当然のことなのだ。

↑ドラえもんの四次元ポケット
❏英語教育を「教科」として「強化」する過ち
英語運用力を議論する場合、検定試験の級だとかスコアに頼り過ぎるのは、日本人が心底、自主性を喪失した国民であることを示唆する。所詮、英語運用力を高めようと論じているように偽装されてはいるが、その実、受験偏差値に依存している時代と何ら変わらない。40年間もの受験体制に置かれてきた結果、すっかり思考力を喪失してきた所作かと疑わざるを得ない。
英語運用力を高めたいのなら、議論すべき論点は検定試験の級とかスコアではない。言葉を使うには「無意識」領域に落としこむべき手続きを「教科」という「意識」領域に晒そうとしているように思える。果たして、日本の英語教育関係者は、英語ネイティブと真摯に話し合いしてきた経緯があるのだろうか? それならば、とうの昔に問題は改善されてきたはずだと思う(竹内)。
付記:英語運用力は、次の2つの成長段階があると経験的に感じている。1)英語を意識しないで内容だけを掴むようになる段階(日本の英語教育は、英語を意識させようとしているから方向性が真逆)、2)英語の表現を無意識の倉庫に収納し、必要に応じて取り出せるようになる。その時に検索しやすくする「付箋」の役を果たすのが、その言葉と対を為す内容(エピソード)や感情、行動など付帯する条件である。英語教育プログラムを組むには、これらの条件に即した工夫が望まれる。