❏自分で「自分を教える」という行為
私が教壇に立ったのは、人と比べたら非常に遅い。50歳で博士号を取得し、高専の教壇に立ったのが53歳である。しかし、案外、これが幸いしたのかも知れない。なぜなら、そこに至るまで「私は私を私が」教えてきた。自習のことを英語でself-taughtと言うが、それに近い。いつの間にか私は私の教師になっていた。都庁職員を15年間、務め、英国の大学院博士課程で当該大学でも看板だった分子微生物学研究室へ加わっても即日、研究生活をスタートできたのも、仕事をしながら常に私は「自分で自分を教えきた」からだろう。だから、53歳で教壇に立って以来、この遅咲きの花は、自分を教えるように他人を教えてきた。これは不思議な感覚である。これをずっと続けてきたから、50過ぎても学生になれたし、今なお教える立場に立ちながらも、同時に学んでいることに変わりないのだ。
私は教科書・問題集は使わない(「資料」として便宜的に使うことはある)。自分が学んできたように生徒に教える。何より自分自身で実証済みなのだから、相手に必ず伝えられると実感し、その想いは伝わる。その場では十分に伝わらないような場合でも、後から伝わる模様である。これが私の教え方である。学習指導要領で制約を受けない高専や通信制高校でオプション設定の通学コース、それも「探究学習」を標榜するスーパーサイエンスコースだから成り立つのだ。このことは、奇跡に思う。
❏人は自分が発見し、納得したことしか教えられない
厳密に言えば、図書やネットや他人の助言も無論、含まれる。しかし、全て自分の考えや想いの中に落とし込まれ、自分と一体化した内容だけを教える相手に伝えている。当然かも知れない。しかし、年間にコレだけの範囲を全て均等に教えるように、と定められるとこの質が維持できるかどうか怪しい。それは私の努力や実績が足りないというより、本の目次のごとく「お題目」だけ唱えても肝心の魂(想い入れ)が相手に届かないのではないかと憂う。私が私の気づいたこと、納得したことを相手に伝えることは、私の血肉を分け与えた実感がする。それは標準からしたら偏りがあるかも知れないが、形式/表面的に終わることを考えれば、私のやり方の方が相手に魂を吹き込めるはずだと思う。
このことで何か「不足分」が生じるのかも知れない。が、私は「充足分」と「不足分」が両方あってこそ、学習者自らに「不足分」を補おうというダイナミズムが発生すると期待している。平坦に整地してしまえば見映えは良いかも知れないが、傾斜も凹凸のない平坦な土地には水すらも流れない。私は野生動物がお腹を空かして獲物を獲ろうと野生が芽生えるように、知識や情報で学習者を物理的に満タンにしてやることが教育だとは思えない。成長を誘発してこその教育だ(竹内)。

↑『かもめのジョナサン』の孤高の図
付記:
1970年代半ばの世界的なベストセラー小説『かもめのジョナサン』。五木寛之氏の翻訳と伝えられ、近年、埋もれていた部分も訳出され全編が公表された。しかし、その素訳は、かつて私が大学時代に教わった記憶のある故・國重純二氏(後の東大教授)が作っていた。その関係からか、五木氏の訳は「創訳」と区別されている。270万部を越え、今なお売れているし、今の世相にも訴えくる内容がある。著者のリチャード・バックはドイツ系移民の子孫。Bachはドイツ語読みすれば、バッハ。あの偉大な音楽家バッハの直系の子孫だそうである。彼の放った名言には、時空を越えて私の魂に響いてくる含蓄がある:
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学習とは、生まれた時から既に知っていることを見つけることである。
実践とは、生まれた時から既に知っていることを行動に表すことである。
教育とは、生まれた時から既に知っていることを、自分以外のものに思い出させることである。
我々は皆、学習者であり、実践者であり、そして教育者である。
リチャード・バック
私が教壇に立ったのは、人と比べたら非常に遅い。50歳で博士号を取得し、高専の教壇に立ったのが53歳である。しかし、案外、これが幸いしたのかも知れない。なぜなら、そこに至るまで「私は私を私が」教えてきた。自習のことを英語でself-taughtと言うが、それに近い。いつの間にか私は私の教師になっていた。都庁職員を15年間、務め、英国の大学院博士課程で当該大学でも看板だった分子微生物学研究室へ加わっても即日、研究生活をスタートできたのも、仕事をしながら常に私は「自分で自分を教えきた」からだろう。だから、53歳で教壇に立って以来、この遅咲きの花は、自分を教えるように他人を教えてきた。これは不思議な感覚である。これをずっと続けてきたから、50過ぎても学生になれたし、今なお教える立場に立ちながらも、同時に学んでいることに変わりないのだ。
私は教科書・問題集は使わない(「資料」として便宜的に使うことはある)。自分が学んできたように生徒に教える。何より自分自身で実証済みなのだから、相手に必ず伝えられると実感し、その想いは伝わる。その場では十分に伝わらないような場合でも、後から伝わる模様である。これが私の教え方である。学習指導要領で制約を受けない高専や通信制高校でオプション設定の通学コース、それも「探究学習」を標榜するスーパーサイエンスコースだから成り立つのだ。このことは、奇跡に思う。
❏人は自分が発見し、納得したことしか教えられない
厳密に言えば、図書やネットや他人の助言も無論、含まれる。しかし、全て自分の考えや想いの中に落とし込まれ、自分と一体化した内容だけを教える相手に伝えている。当然かも知れない。しかし、年間にコレだけの範囲を全て均等に教えるように、と定められるとこの質が維持できるかどうか怪しい。それは私の努力や実績が足りないというより、本の目次のごとく「お題目」だけ唱えても肝心の魂(想い入れ)が相手に届かないのではないかと憂う。私が私の気づいたこと、納得したことを相手に伝えることは、私の血肉を分け与えた実感がする。それは標準からしたら偏りがあるかも知れないが、形式/表面的に終わることを考えれば、私のやり方の方が相手に魂を吹き込めるはずだと思う。
このことで何か「不足分」が生じるのかも知れない。が、私は「充足分」と「不足分」が両方あってこそ、学習者自らに「不足分」を補おうというダイナミズムが発生すると期待している。平坦に整地してしまえば見映えは良いかも知れないが、傾斜も凹凸のない平坦な土地には水すらも流れない。私は野生動物がお腹を空かして獲物を獲ろうと野生が芽生えるように、知識や情報で学習者を物理的に満タンにしてやることが教育だとは思えない。成長を誘発してこその教育だ(竹内)。

↑『かもめのジョナサン』の孤高の図
付記:
1970年代半ばの世界的なベストセラー小説『かもめのジョナサン』。五木寛之氏の翻訳と伝えられ、近年、埋もれていた部分も訳出され全編が公表された。しかし、その素訳は、かつて私が大学時代に教わった記憶のある故・國重純二氏(後の東大教授)が作っていた。その関係からか、五木氏の訳は「創訳」と区別されている。270万部を越え、今なお売れているし、今の世相にも訴えくる内容がある。著者のリチャード・バックはドイツ系移民の子孫。Bachはドイツ語読みすれば、バッハ。あの偉大な音楽家バッハの直系の子孫だそうである。彼の放った名言には、時空を越えて私の魂に響いてくる含蓄がある:
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学習とは、生まれた時から既に知っていることを見つけることである。
実践とは、生まれた時から既に知っていることを行動に表すことである。
教育とは、生まれた時から既に知っていることを、自分以外のものに思い出させることである。
我々は皆、学習者であり、実践者であり、そして教育者である。
リチャード・バック