❏知力を筋力に例えると見えてくる実像
学校の体育では、徒競走に代表されるような瞬発力がモノを言う競技が多い。そのため、マラソンのような持久力が持つ者の存在は表に出にくい。一方、学校の勉学では、授業や試験のような毎日、黙々と学習を進めていく持続力に重点が置かれている設計となっている。体育祭で徒競走が長距離走より主流なのも、日々の勉学で宿題や小テストが課されるのも、コツコツと進めることが学習法だとの見方が主流であることからであろう。

しかし、翻って現実の社会には、確かにコツコツと「倦まず弛まず」日銭を稼ぐ仕事もあれば時々、「ドッカーン」と売れれば良いような商品もある。ちょうど、国体やオリンピックに短距離走も長距離走も混在しているように、である。しかしながら、こと勉学に限定すると目下、コツコツ型だけが主流を為し、大きなチャレンジをする機会は今のところ、まだマイナーである。ようやく最近では、高校生向けのコンクールや(研究発表会を含む)コンテストの行事が年々、充実を見せてきている。

❏業務の特性も人間の能力も多様である
実際、よく精査していくと、社会に現在ある仕事も個々の人間の持つ特性も、多様性に満ちている。下記の図書は1994年の刊行(原著は1991年刊行)の『天才たちは学校がきらいだった』(講談社)のやや古い本であるが、現代の教育問題に通じる内容を持っている。一つの視点は、才能と障害が同居しているという論点(著者トマス・ウェストの「はじめに」から)、もう一つは本書の論点の科学的根拠となった脳の解剖所見が機能の差を生み、才能や障害に関係する(訳者久志本克己氏が言及)。


  ↑『天才たちは学校がきらいだった』
    (原著、In the Mind's Eye、心の目)

この本のカバー見返しには、次なる意味深な文言が記されている:「脳は一種類ではない。成長の速さも違えば、思考のモードも違うのだ!」

❏社会に多様性があれば皆、生きやすくなる
ヒトの脳の構造と機能にバラつきがあるのならば、学校や仕事を含めた社会にもそれを許容する体制が整うことが望ましい。例えば、小テストのようなドリル作業を繰り返すことが好きな生徒もいるだろう。そのような生徒には、ルーチン化された事務作業がピッタリである。逆に、興味が乗らないと夢中になれない生徒もいるだろう。そのような山っ気のある生徒には「ひと仕事」に取り組み、「やり遂げる」という工程の谷間に「結果を味わう」休息を与え、その挑戦を繰り返しつつ成長していくような戦略が相応しい。

30年から40年にも及ぶ長い低迷期を経て今、日本ではようやく教育改革が始まろうとしている。それも、日本が置かれた世界環境の中で、遂に時代に求められた感がある。今やいつ日本が外国勢力の影響を受けても不自然ではない。英語で行われる国際司法裁判のワナに嵌められてもおかしくない。教育改革の進展に反し、社会の受け皿が平行して整わなければ意味を為さなくなる。教育改革の成果は直ちに日本社会の刷新に反映するように教育の制度設計のみならず社会の制度設計に連動して行かなければ歯車が回らないことは自明である。心して掛かる必要がある(竹内)。

付記:団体生活に馴染まないから「扱いにくい」という理由から才能の芽を潰していくことは、今から先は国益を損ね、時に国の存続に掛かる問題にもなり得る。一律に管理して済ますことが「教育」だったり、「業務」だったりした時代は終わりを告げる。そうでなければ、全てが終わりを告げる時代にまで追い込まれていると言って過言ではない。ヒタヒタと不穏な影が忍び寄っているのを、あなたは感じないだろうか?