❏人間と機械に求められる条件の相違
人間は機械を作って利用してきたが、機械に使われる筋合いではない。人間は純度の高過ぎるものは合わない。ミネラルを含まない蒸留水は機械には合っているが、人間は生きていけない。精製した揮発油はエンジンなど内燃機関の高性能発揮に適しているが、未精白の穀物の方が人間の健康維持には適している。かくも、生き物である人間と、人間が生み出した機械とでは特性が異なっている。

現代は機械化が進んだ時代(in a mechanized age)であることに異論はない。機械が持つ特性からしたら精度が高く精密加工され、ムラなく均質であることが適した条件である。しかし、生身の人間に最適な条件が無機質な動きをする機械と同じ条件で適合しているはずがない。この差異に、もっと目を向けるべきであろうと私は思う。

❏機械論的に作られた学校敎育と夫婦生活
教えるべき内容をリストアップし、それをローラーでシラミ潰しでもしていくような教科ごとの知識付与型の学校敎育。この効果は果たしてまともに検証された上で、長く続けられてきたのだろうか? インプットした分だけのアウトプット分が実証されいて、その効果は保証済みなのだろうか? これをこの通りに教えれば、然るべき効果があるという「思い込み」で、生徒側の立場も考慮せず学校敎育を一方的に強制してきたような過ちは犯してないのだろうか?

解りやすい例を出そう。それは日本人の世界一、貧弱な夫婦生活(性生活)とも深く関係しているのだろう。近年、日本人のセックスレスはつとに有名である。断っておくが日本人が好色でないと言っている訳ではない。日本製アダルト動画は質・量で世界を凌駕する。だから2次元世界では隆盛を極めているのだ。日本人のスキンシップの希薄な文化という影響もあろうが、日本人のセックスは淡白だと揶揄される。男性のピストン運動は一本調子に進み、相手の女性の反応などお構いなく、相手の様子を伺い逐次、対応する器用さに乏しいようだ。してみると、日本人の貧弱なセックスと日本の教室で行われる一方通行の授業とは、同根であると私は考えている。

❏小テストを繰り返してモノになる日は来るのか?
世の中に例外は尽きないので、それが良かったという例もないとは断言はしない。でも、それで目を輝かしてイキイキと精力的に成長し続ける人材が育成できるのか、私は大いに疑問である。コツコツと積み上げる学習はある意味、ムラなく凹凸のない鏡面仕上げを目指すような方向だと言える。小市民的に、言われたことを卒なくできる働きアリのような人材が欲しいのなら、それで良い。それゆえ日本は高度経済成長期に発展でき、PISA試験の結果も英米より遥かに平均的では上回る集団敎育で成果を収めた。ほんの僅かの日本人の自然発生したエリートがいた時代だ。昔のエリートは偏差値秀才ではなかったからリーダーシップが執れた。いまは無理して生まれたエリートだからホンモノのエリートのような野性味を欠く。だから一流企業の屋台骨がぐらつき出したのである。少子化で経済移民制度が取り入れられれば、たちまち日本人は外国人エリートの下で就労する結果になるだろう。さんざん出る杭を打ってきた日本社会には、愚かにもエリートを生み育てる度量に欠ける。一歩、抜きん出た"仲間"を認め、称える風土がないのだ。これが日本の島国根性であるが、同じ島国でも英国にはエキセントリックさを尊ぶ風土がある。


   ↑凹凸がある平面のモデル

鏡面仕上げされた人材は、組織のパーツには適当である。いつでも置き換え可能なピースだからだ。「余人を持って代えがたい」人材は、ステーブ・ジョブズを例に出すまでもなく凹凸の激しいタイプであることは間違いない。凹凸がある地形だから風も吹き、雲が湧き立ち、雨が降り、流れを作って大地にダイナミズムが巻き起こる。一本調子で平らな鏡面仕上げしたタイルを日本の敎育はさんざん、敷き詰めて、平坦にして良しとしてきた。なるほど波風は立たぬだろうが、実に愚かしいことだったと思う(竹内)。

追記
私は生徒の個別指導に当たり、当該生徒の能力やそれまでの蓄積の程度を問わず、先ずゴールを見せることからスタートさせる。ゼロから積み上げることはしていない。ゴールを見せずに、どう積み上げていく必要を伝えるのか? 高校時代は「自然成長力」を秘めた時期で、むしろ学校が阻害していると思う。

ルネサンス大阪高校の公式ブログ・サイトより:
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