❏問題を解くことが果たして学力育成か?
目標設定が根本的に誤っていると言える。日本では、教科知識が身についたか否かの判定をわざわざ「試験問題」というフォーマットに加工して学習者に課し、教員が答案を採点して点数化して理解度を評価するという面倒くさい手続きを踏んでいる。一見、公正に学力が評価されているように誰もが信じ込んできたけれど、ホントにこれで良いのだろうか? 定番である試験問題というフォーマットに加工する手間は「らしく」見える点で客観的に見える。赤い朱肉でハンコが押されると、同じ文書でもまるで御霊が入ったように錯覚するがごとく、である。なぜ、どうして「試験」に加工する手続きを踏まないといけないのだろうか? 自然の恵みである野菜や穀物を手間かけて「加工食品」に仕立てているように映る。無論、手間ひま掛けることで教員に労働対価生まれ、生徒に受益享受(学費支払いに見合った満足感)が体感できるのならばともかく、そうでないのなら詐欺行為ではないか?

率直に言うなら、数字に化けたことで成績評価し、人を育てているとでも錯覚してきたのであろう。実社会に出て、果たして「試験問題を解く」に当たる仕事があるのであろうか? 路上を歩いている高校を卒業したと思しき通行人を任意に捕まえて、高校で履修した内容を覚えているという大人がいるか否か、確かめた実績があるのだろうか? 私は実験したが、返事は「全然・・」であった。よほど現在の職務で常用している知識や技能に直結した内容か、あるいは個人的な趣味にでも沿わない限り、良い返事は期待できないとみる方が妥当であろう。では、高校課程の敎育は無駄か? 私はこの問いにも「否」と回答したい。注釈がいる。現在の学校のような無意味なまでの正確さ(特定の教科書の、しかも脚注にしか書かれていない内容)を求めることが、人間性を愚弄する行為である。このような愚行(蛮行)を識者が放置し続けることで容認してきた事実の意味を噛みしめて欲しい。

❏日本の高大接続は「予備校講師」を量産する設計
今の高校課程や大学入試が描く育成したい学習者像を想定するなら、実社会で最適化されたその職業ターゲットは予備校講師だと思えるが、間違っているだろうか? 大学敎育を受けたことがある者は皆、入試で問われる学習内容と大学での勉学が(工学部で数学計算を用いることを除外すれば)一致していないことは了解済みではないだろうか? 全国民を予備校講師に仕立てあげることが国家の安定と成長に繋がるというのなら結構。だが、そうではないであろう。予備校講師が転職していけるのだろうか(無論、例外はあったかも知れない)? 逆に、他の職の従事者は予備校講師に転職できるのだろうか(例外もあるだろうが)? かくの如く高校の普通科は安上がりだが、実社会への接続性に極めて乏しい。

高校課程では、どのような敎育内容が普通科(予備校講師育成)課程代わりに導入されるべきであろうか? 一口に言えば、あらゆる側面で理路整然として論旨(point of argument)が明確な長文を書く訓練である。これが中心になる必要がある。それに対し、現状はどうであろうか? 皆無である。それだから日本の大学教授は高校課程で全く文章を書く訓練を受けてこなかった高卒者を相手に必修の卒論を原則、全員に課し、指導する職務がある。それも大学入試の実務と並行しての二重苦だ。 

❏世界の高校と大学は、どう対処しているのだろうか?
英国は、高校の卒業試験の結果をバンド表記し、それに応じて出願できる大学の選択幅が決まる(二重に試験は課すような無駄はしない)。日本からの大学院進学に際してもIELTS試験のバンドで出願できる大学の幅が決まる。あとは英文エッセイを送りアピールして相手からの応答を待つのが原則だ。これで何ら支障はない。書かれた英文を読めば適性も実力も判定できる。不正を犯せば犯した本人が苦労するだけだ。文章が書けない者は大学敎育への適性はなしと判断される。が、日本の大学入試では点数が大手を振り、逆にAO入試の小論文が逆に低く見らてしまう。


↑米国の敎育産業(ライティング指導)

上記のサイトは、米国のある英文エッセイレイティングの指導サイトである。日本式に言えば、通信添削とも塾とも言える。悪用すれば代行業とも言える。「何? 日本と同じじゃないか。」という声が聞こえてきそうである。だが、私は日本の受験対策用予備校よりも遥かに優れた敎育支援活動だと認めたい。そこ根拠はすこぶる単純である。入試の受験対策は「一過性」である。一生モノの学力には程遠い。逆に、文章を書く能力は思考力にも直結し、一生を生きる力になる。上記のサイトでは、高校レベルから博士課程レベルまでのサービスを提供している。これが日本の高校課程で取り組むべき敎育の中核だ(竹内)。

追伸
大阪校のスーパーサイエンスコースでは、各種の研究発表会やコンテストに応募する過程で文章を書き、発表する学習方策を採用しています。その方策が、これまで高校課程の不備をカバーでき、一生の力となると確信しているからです。途中で必要となる知識は、必要に応じてネットや書籍でいくらでも補填できる時代です。時代が大きく変わった分、高校敎育課程も設計し直すべきです。