❏英語という「武器」が磨く眼力とその限界
DHCという会社がある。今では化粧品やサプリメントで大きく躍進しているが、そのはじまりは英語文献の翻訳サービスであった。DHCは、ダイガク・ホンヤク・センターの略である。つまり大学研究室を御用聞きして回り、洋書を翻訳したり、英語論文を作成支援するサービスで始まった事業だ。恐らく翻訳事業だけでは成り立たないことを早期に感じ取ったのだろう。ある意味、その翻訳事業だけに依存して終わらなかったことの先見性が、今日に見る隆興と対をなしていると思われる。


 ↑DHC(社名は、大学翻訳センター)

なぜ翻訳から別の業界へと業務をシフトしたのか興味深い。しかも、英語事業自体も廃業してはいない。ここは、私は彼らの強かさを感じる。つまり英語を使ってきたことで時代や社会を見る目を養ってきたが、同時にその業態での限界も感じることができたのであろう。それは、組織の外にいる人間の目からしたらまるで理解できない。が、組織の内部にいる者からしたら全く不自然ではないのだ。私は、使える英語を学ぶことで、このような世の中を見通していく眼力が磨かれると考えている。だから英語という武器を捨てて丸腰になるような真似はできないのだ。逆に、英語という武器を持たない人は「丸腰」なのだと思う。

❏英文は細かな状況に規定される
実用レベルで英語を使っている人にとっては、おそらく自明のことである。ところが、そのレベルに到達している日本人は残念ながら数少ない。だから、この感覚をシェアしていくことはたいへん難しい。これが日本の英語論争の場で議論が咬み合わない根本原因になっているように思える。

多くの人は英語は翻訳機やネイティブ・スピーカーの手を借りれば何とかなるものだと信じているであろう。確かに助けにはなる。しかし、最終決定は、その英文の起草者でなければ決められない部分がある。それが冠詞・名詞の単複・時制の3つの、皮肉にも日本人が苦手とする最難関である。つまり日本語にはない文法要素であるだけに、扱いにくく逆に正しく扱えば文字面以上に真意を伝えることができる。逆に不適切に用いたならネイティブは怪訝な顔をするしかない。だから見掛けはどんなに英文に見えても、その内容が正しく伝わるとは限らない。逆に、ネイティブの指導を受け英文を書き起こしたとしても逐次、記述された内容のモノの数や要した時間、いつ行った行動か、その他もろもろの当事者しか知り得ない情報を本人から聞き出さないと英文は書けないものなのだ。それをドリルのような問題練習をして英語が身につくと信じているから「使える英語」の水準に辿り着けないのである(竹内)。