❏クローズド(閉鎖系)の学びが持つ限界
定期試験のような出題範囲が規定されている学び、入学試験のような正解が確定している出題、これらの概念はいずれも"closed"のカテゴリーである。これに対し現実世界はオープン(開放系)な時空間を為している。この落差は例えようがないほど大きいと思う。無論、厳密に言えば、境目は曖昧な部分もある。しかし、仮にダミーであっても答え(結果)を知らない方が人間は成長する。それは人の一生は結果論として大まかな筋書はあるのであろうが、人はいつどうなるか一寸先が闇だからこそ行きていける。人生の結末を知っていたら、生きる気が湧いてくるだろうか? 実は、人生の問いと学びの問いは括れば同じであろう。だが、教育関係者の多くは「人生=学び」の等式に気づいていないように見える。

だから私は、仮に入試問題を題材に生徒を指導する場合でも、私は一切の準備をしないで問題に立ち向かうようにしてきた。そのことで迫真性も出てくれば、生徒の前で私が考えるプロセス、時に悩み苦しむ姿、さらに間違える瞬間をありのまま見せることができるからだ。教育は断じて、シナリオを読み合わせる演劇であってはならない。実社会では、その瞬間瞬間が勝負だからである。予定調和のあらすじをトレースして誤魔化すから聞いている方は緊張感が伝わらず、眠くなるのだ。かくも教育とは「真剣勝負」なのである。とは言え、教員である私が間違えても、知らない事項に遭遇しても、私は恥じない。それが事実で、ありのままだからだ。演技や虚構でないから、生徒と教員との学びの血肉となる。


↑片方開いた管(オープンエンド)模型

❏オープンエンドの学びだとワクワクしてくる
私は英文エッセイ・ライティングを生徒に指導する際、その場でPC画面に向かってキーボードを打ち始め、ある言葉の次にどんな言葉が来ては、並んで、文章が形づくられて行くのかを公開している。出来あがって完成した英文をいくら眺めてもいても、力はつかないからだ。ある単語の次にどんな単語が来るのかを先を予測していくことこそが、英語の学びである。なぜなら英語は単語が並ぶ語順で決まる言語である上、実際に英語はそのように前から後へ流れる川の流れと同じである。私が訳読を嫌うのは、この自然の大法則に逆らうがごとに行為だからだ。英語の運用力が付くはずがない。第一、真っ白い紙(画面の空白)が自分の文字で埋められていくことは快感だろう。それとも出来合いの英文を眺めていることで満足していられるのか? 人は現実の形成に参加することで、生きている実感が沸く。

英文ライティングをすれば、あなたも書き手の一員として今度、他の書き手が書いた英文でも味わえるようになる。私は若い頃、学会に出席する場合、自分も発表者として参加することを自ら課してきた。自分は傍観者ではなく、真摯な「参加者」として仲間入りしたかったからだ。英文ライティングの習得も、科学の研究発表も同じ原理であることがわかろう。私はこのような訓練を経てきたので、生徒に教えてきて知らない事実に遭遇しても顔色一つ変えない。知らないことに遭遇し、考え込むことなど、研究の世界では日常茶飯事だからだ。その時、自分のありったけの知見を総動員して可能な限りを説明を試みてみる。これは長い英文の途中で知らない単語や表現に遭遇した時の対処法と全く同じである。今は答えを知らなくても、必ず分かるはずと信じ、可能な限り暫定的な説明ができれば構わないし早晩、正解に近づいていく。このような苦境に立つからこそ、窮すれば通ずで、閃きや気づく不思議な力が付与されてくる。正解のある世界に留まっていたら、この力が自然に育つことはないであろう(竹内)。