❏本を読んでいるから「書ける」と思う錯覚
小学校の頃までは辛うじて「作文」教育が実践されている。大学ではレポートや卒業論文が課されたり、学者の業績も論文や著書で評価される。その間となる中高時代は唯一の正解を問う「問題練習」が学びの中心となる。これは、どう冷静に考えてみても問題である。どういう教育をすべきか・・という視点でなく、どういう教育だと楽に進められて管理しやすいか、さらに深読みすれば人心操作しやすいか・・こんな作業が学校教育の基軸としてまかり通ってきた。知ってか知らずか、教育関係者も長年、放置してきた。そしてこんな先の見通せない国ができあがってしまった。

結果的に、中高生はまとまった文章が書けない。否、大人だって怪しいものだ。まとまった文章を書けないということは、考えることができないことを意味する。なぜなら人は、考えがあって書くのではなく、書いていく過程で考えているからである。これは認知心理学的に捉えたら誰でも自覚できることで、ロジャー・シャンクの『人はなぜ話すのか_知能と記憶のメカニズム』の変型版である。本を読んでいるだけでは、自分でも考えているはずだと錯覚しているだけで、いざ文章に書こうとすると書き進められない人が大半だと思う。これは、書き慣れているか否かの問題と言うよりも、能動的に「思考する力」の有無と関係する。聞いているだけの授業中の脳波は寝ている状態と同じ(河合塾の調べ)だから今、「アクティブ・ラーニング」が求められているのだ。それが証拠には、話を聞いていて眠くなることはあるが、話していて眠ってしまう人などいない。文章を読むことと、文章を書くことは雲泥の差がある。まったく別モノだと言っても過言ではないが、多くの大人も自覚がない。


↑人に綴って賢くなってきた歴史あり

それが、人生の成長期に当たる中高時代に大きく欠落している。そして欠陥人間ができあがり、考えない大人が社会に蔓延していく。そのような考えない大人が社会を動かしていく。その結果が今に至っている。本来するべきことの代わりに入り込んだのは、しなくても良いことである。受験による選抜だ。しかも偏差値で輪切りにして雁字搦めに縛り上げ、若者に挑戦の機会を持たせず、失敗を極度に恐れさせる。底意地の悪い社会。以下は、Wikipedia英語版の"Japan"の項の記述から(末尾に記載)。こんな内容で、海外へ日本のことが伝わっているのが現実である。
Japan suffers from a high suicide rate. In 2009, the number of suicides exceeded 30,000 for the twelfth straight year. Suicide is the leading cause of death for people under 30.

❏書かないことは、考えないことに直結
本をたくさん読んでいる人は、自分はまとまった文章が書けるものと信じ込んでいるだろうが、それは嘘だ。そう錯覚しているに過ぎない。書ける人が、真に読んでいるとは言えるだろう。同様に「文章を書かせない教育」も片手落ちだ。「片手落ち」という言語が差別用語だという見解もあるようだが、今の学校教育も間違いなく片輪な人間を育成しているのは間違いない。実際、日本の学校で現在進行形で、どれだけの不幸が生じているか考える方が先決だろう。その多くは子供に責任がない。子供に非があるとしても、その原因であるストレス社会を生み出したのは、大人であり、多くは学校の教師や保護者が加担していることが遥かに多い。

最近、見聞きした実話を紹介しよう。ある進学校から自分の目で確かめて専門学校を選んだ。その進路選択に対し、学校の教員は強硬に反対したと言う。要するに、大学へ行けるのに専門学校を選んだ生徒の将来を案じて・・というより自分の進路指導の都合(ハッキリ言えば)からである。同じようなことは、Teach for Japan設立した松田悠介氏も大学の進路選択に際し、東京六大学を蹴り、日大へ進学したことで高校教師と揉めたことを何処かで述懐していた。氏は後にハーバード大学へ留学している。これも教師側の事情、ハッキリと言えば、教師のエゴが原因である。松田氏は跳ね返したが、中には潰れてしまう生徒もいる(通信制高校へ流れ着いてくる)。教師のみならず親の有名大学以外を大学だと思わない固定観念の保護者にも驚く(子供が通信制高校へ在学していてもだ)。教育を巡る洗脳によって何方も思考回路が麻痺しているのではないかと危ぶむ。そのような洗脳も、書く能力さえ確保していれば自分の意見が確立でき、騙されたままに終わらないで済むのにな、と残念に思う。文章を書く力は、人心操作術と闘う武器になり得るのだ。

❏思考停止を招く受験勉強
聞くだけの授業。答えが決まった問題を解く練習、そして定型化された試験。これらの「教育」に見せかけた行為は「まやかし」だと私は思う。ある程度の「基礎」が必要なのは事実。だが、「基礎が必要だ」という事実を紋所にして延々、繰り返していては教える方は楽だろうが、生徒に成長がない。無論、楽をした教師も成長しない。社会も衰退していくに決っている。それだけのことである。それを大学進学を錦の御旗に、高校教育を立派そうに偽装してきた。

偽装だから自信がない。人間は自信が持てたらコソコソしないし、堂々とするものだ。教育現場がイジメの温床になるカラクリは、そこにある。素振りの動作をいつまで続けさせるのか。その基礎の先に何があるのかを示せてこその教育だ。教育は、その中身の魅力でもって若者を惹きつけるべきである。魅力がないから脅しで学校は教育している。はたまた学校名をブランド化し、まるでモノでも売りつけるような文化を根づかせてきた。バッグやクルマじゃあるまいし・・。

唯一の正解を求める勉強は思考を停止させる。人間の脳神経細胞のネットワークのシナップス形成機能と矛盾するからである。「関連づけ」こそがホンモノの学力の基盤である。通信制高校には既存の教育に不適応を起こした生徒が流れ着いてくるので、むしろ主流派ではないがIQの高い生徒がいる。IQの高い生徒ほど、退屈な受験勉強を嫌うものだ。頭に悪いから当然である。逆に頭が悪い人が社会の上層を占める。船頭が無能ならば、いずれ人が住めない国土になるだろう。

脆化という原子炉を扱う者にとっては常識的な言葉がある。中性子が鋼鉄もコンクリートも貫いて各々、素焼きやレンガのように孔だらけにしてしまう。原子炉運転直後から無垢の状態から稼働時間に応じて孔が開け続けられていくのだ。なぜ微生物学を専攻してきた私が脆化を知っているかと言うと、中性子ビームで孔を開けたNuclepore社のフィルターを常用してきたからである。ポリカーボネートの薄膜に任意の孔径(例えば、1μm)の孔が多数あいているような製品で、無粒子水を作ったり、粒径サイズ別に微生物を分画したり、透析培養するのに用いたことがある。私はその1点を手掛かりに、原子炉格納容器に脆化が起こることを察知した。専門分野外でも、類推する力があれば、理解は及ぶ。受験勉強では、想定された枠組みを越えることはできない。

❏アウトプットを想定したインプットを
私はサイエンスコースの生徒に、研究発表用のポスターを英文で書く指導を行っている。断っておくが、彼らが英語が得意だからそうしているではない。事実は逆さまで、英語が苦手で、解らないからそうしているのである。恐らく常識的には、平易な段階から順番を追わないと先へ進めないと多くの人は信じ込んでいるだろう。私の常識では真逆である。英語を基礎からコツコツと積み上げて行くのが苦ではない優秀な生徒は、それを続けたら良い。英語が自由に使えるようになる日は永遠に来ないだろう。その日が来たとしたも英語しか身につかない(専門性は築けない)こと請け合いである。

私のやり方は、コツコツ積み上げる勉強を敬遠する生徒ほど、ゴールを見せた方が好ましいので真逆の道を辿らせている。人はアウトプットすることを心得ているから、インプットすることに価値を見い出すのだ。それをインプットばかり強いてきたのが、これまでの学校、特に高校だ。それを巧妙に誤魔化すための偏差値による序列づけと受験指導。これでは、国は滅びる。書くことを取り入れない限りは、真っ当なインプット、すなわち「学び」が起こる道理がない(竹内)。