❏日本社会が持つ「自己抑制」を強いる空気
おそらく日本語が曖昧さを許している言語であることに起因していると、私は見ている。なぜならば言語文化が異なる欧米には、その曖昧さに対する寛容な態度はないからだ。日本人は議論(それも意見交換の類でも)していると、まるで双方が口喧嘩でもしているように錯覚してしまうようだ。何でも丸くその場を納めれば良いという風潮が強い。

その曖昧さをして、日本人に詰めの甘い、拙さを醸成させてきた根本原因だったと思っている。真剣であればあるほど当然、議論を詰めておくべき箇所は詰めるのが誠意というものであろうが、暗黙の了解で済ませてしまう。ツッコミを失礼だと捉えてしまう自己抑制。その自己抑制を強いるような空気が社会に漂っている。これは、学問を生む風土ではない。

❏事前説明も(議論も)ないまま発車する乗り物
発達段階で教育の質は変化していくのに日本では、例えば小学校の学びはこうで、中学校ではこう変わり、高校ではこう変わり、大学ではこういう学びになる・・という説明は一切、ないだろう。実際はリレーであるべきなのに次の段階の校種のニーズに「繋いでいく」発想が全く感じられないのだ。だから中学校へ入ると、グループの調べ物活動や討論はなくなり、イキナリ個人競技の定期試験中心の教育に激変する。その流れに乗れた者は成績上位者であり、乗り遅れた者は成績下位者として分別されていく。その仕訳けその者の能力(ましてや才能)を反映しているか否かにはお構いなく進む。少なからぬ者が、あれよあれよというままに等級づけが行われるので唖然としたのでないだろうか。

この初期対応に出遅れた者が、真の落伍者であるかどうかは私は怪しいと思う。例えば、英語の入門に失敗してしまった者の中には、大学で第二外国語で好成績を納めることがある。これは、同じ轍を踏むまいとする意思を私は感じ取る想いがする。つまり初期の入門に失敗したことで、不遇な展開を辿るケースがあるのだ。それは学校教育の主たる目的が人間を序列化することにあり、人間の能力や才能を引き出すことにないことを、如実に物語っていると私は思う。

お節介なほどの鉄道の発車時のアナウンスが、なぜか学校においては微塵もなきまま、学校という列車は音もなく走りだすのだ。つまり「決まり切った」アナウンス(要するに不要)は可能でも、合理性を持った生徒や保護者(もっと言えば教師自身を!)納得させるようなアナウンスをこの国の国民は求めることをせず、教師も真に必要な説明を行う気配もない。

❏日本では学者は尊敬されていない
例えば、ある教科をなぜ学ぶのか・・このような根本命題に対する説明がない。欧米はこういう根源的な問いを好み、逆に日本は敬遠する。あるいは、無意味だとか、暗黙の了解だとして済ませてしまうのであろう。しかし、これが、学びを「作業」に留めるか、「学問」への入口に導くのかで大きな差が生まれる。欧米には学問や科学に対する敬意や、特には畏怖するような風土が感じられるが、日本では学問や科学に対する地位が本当に高いとは感じない。博士や教授の肩書を有難がるくせに、心から敬意を表して実社会で活かそうとする風土があるのか否かも心許ない。


 ↑白衣を着用し者、真実を語るべし

英国で暮らしていた私は博士号取得者は電話帳から郵便物まで「称号つき」で呼称され、社会の中で別枠で扱われることを知っている。このような習慣が日本には全くない。博士や学者が社会から期待されることもなく、単に大学の序列番づけの当事者でありながら、専ら恩恵に浴していただけであり、口を噤んでは社会情勢を改善してことに全く貢献してこなかった。私はこの落差を単に文化や風習に起因するだけとは見ていない。日本の博士や学者が日本の社会で尊敬されてこなかったのは、明らかに社会を歪めてきた大学入試制度に対し、御身大切で一切の改善策を取るどころか、そこに加担して安住してきたから当然の報いであると考えている。世界の何処に、博士号を取った人間を粗末にする国家があるだろうか? 仮に、だ。その博士が社会で使い物にならなかったとして、放置している大学があるだろうか? それを当事者以外の、生徒や保護者が改善できようか? 大学人の身から出た錆だと思う(竹内)。