❏大学進学はかつての「集団就職」か?
世界最古の大学、すなわち高等教育機関としての機能を有すると思われる学校は、タキシラ(タクシーラ)遺跡にあったとされる僧院らしい。紀元前6世紀頃のガンダーラ時代まで遡る。場所はシルクロード上の東西が交易するパキスタン-インドの国境近くであるとされる。以来、大学は頂点に立つ教育機関として世界中に分布し、人類と社会に対して一定の役割を果たしてきた。


↑大学の原型があったというタキシラ

それゆえ世の人々が、幼稚園から小・中・高の最上位に位置する高騰教育機関として崇めて、一様にそこを目指す気持ちが解らないではない。しかし、人口比を考えてもそれほど多くの人材が一般大学へ向かう姿は尋常ではないと見るべきであろう。私は「東京生まれの東京育ち」で、どうして皆が東京へ出てくるのか理解できなかった。聞けば、「東京へ出ないと仕事がないから出てくる」と言う。同じ論法で、「大学へ行かないと仕事へ就けないから大学へ行く」という論法が成り立ちそうである。すると、人が「東京」を目指すのと「大学」を目指すのは、大差ないように見えてきてしまう。

❏大学は類型化されるのが世界の趨勢
英国の大学は、かつて学術研究を担う大学と職業訓練を担うポリテクニックが1993年に渡英した頃には分かれていた。これは良いシステムだと思っていたら、ポリテクニックは全て大学に昇格してしまい、沿革を辿らないとほんとに区別がつかなくなった(かつての日本の国立一期校と二期校の関係と似て)。

だから今さら日本が英国が辿った道を逆に進むのは難しいだろうと思う。しかし、学術研究と職業訓練を粗く二分しておくことは妥当だったと感じる。米国の場合、大規模校(例えば、カリフォルニア大学の各分校)と小規模校(リベラルアーツカレッジ)は上手に役割が分担されている方だと思う。そして学部教育はカレッジで教授と膝を突き合わせるようにして受け、高度な専門教育は大規模校の大学院の特定の研究室で受ける。大規模校のメリットは研究開発に複数の研究室が複合することでブレークスルーが期待でき、海外との共同研究でも有利に展開していく。

前者が「教育を担う大学」で、後者が「研究を担う大学(研究大学または大学院大学)」ということになる。このような仕分け(重点化・差別化)はロシア・中国などにも見られ、世界の趨勢である。

❏一列に整列した貧しい日本の大学
日本には「受験産業」という、社会的には不毛な徒花(あだばな)産業がある。徒花とは花が咲いても、「実を結ばない」ことを意味する。つまり日本の最古参である東大を頂点とした序列化である。それは日本で「受験産業」を温存させるために必要な条件である。無論、既存の高校教育の存在価値も「どこの大学に何人入れた」という塾や予備校が掲げるべき価値基準へと完全に飲まれてきたというのが実情だろう。これは、社会的にも重複した「二重投資」に他ならない。

この一国の中で序列を作って有難がっている様は、日本の「島国根性」丸出しだと感じる。英国の大学は1校を除いて国立(厳密には、王立)であるため背景は自ずと異なるが、全英の大学が束になって国益を損ねず、海外に分校を設置したり通信課程を設けて途上国の人材を獲得しようとしている。日本も英国も、元々は同じ島国であるはずなのに、まるで歩む方向が真逆である。

❏東大・京大/阪大は、大学院だけに
文科省も主要大学の名称を「◯◯大学」から「◯◯大学院」と大学院重視政策を展開してきた。しかし、これでは看板の挿げ替えに過ぎず、実効性を伴っているとは言えない。恐らく受験産業が困るのであろうが、東大・京大・阪大は周囲に山ほど学部教育を担えるような大学が数多あるのだから、少なくともこの3大学は学部教育を廃止し、大学院のみにした方が近隣の大学とお互いに食い合わなくて済むはずだ。日本全体での大学教育及び学術研究の底上げに繋がるはずだ。

そして、いい加減に東大・京大/阪大(京大と阪大は地理的にも近過ぎる)を塾や予備校の実績を表す、ハッキリ言えば「低レベルなブランド化」から脱却すべきである。これは、高校生の受験に対する意識_元を正すと、高校生の親の意識が古臭過ぎるのだが_を書き換えることになる。要は大半の親の悲願とは、「オタクのお子さんはどの大学へ?」と聞かれ、「はい、◯大へ通っています。」と答えて満足したいレベルが実態ではなかろうか? そんなために大学が存在しているのでは、滑稽過ぎる。このグローバル化の情勢に至っても時代錯誤をしていて、「しっかりしてね、日本!」と私は言いたい(竹内)。