❏通常の学校教育にない異世界
昨日、大阪府で67年間も毎年、継続してきた研究発表会へ大阪校スーパーサイエンスコースが2年目の参加が達成できた。私が生まれる前から始まっている由緒ある場である。ここに集う高校生は皆、研究活動であれ、クラブ活動であれ、実際に特定のテーマを持ち、自らの手で何か実行した者が成果を持ち寄って発表する場である。学校は授業や試験を行い、成績を公式な学業記録として付けていくというオーソライズされた権限を有するが、実際の生徒が持つ能力ポテンシャルは案外、このような研究発表の場で見た方が確かなのかも知れない。

高専時代にもロボコン競技があった。私がいた高専で全国準優勝したロボコン部の主将が大活躍したにも拘わらず、通常のペーパー試験が奮わないため退学に追い込まれたことがあった。本人は後で神経症に苦しむまで追い込まれたと聞く。このような顛末は、私は学校教育としては「本末転倒」だと思う。確かに決められたルールで成績が付けられていくのはやむを得ない。しかし、定期試験の多くは暗記で点数が稼ぎ出せる内容である。言っては悪いが決して胸を張れるような内容だと言えない。強いて言えば、その成績評価法が単に「オーソライズされている」手続きであるだけに過ぎないと思う。そのオーソライズが果たしてどの程度、厳密に吟味されたものであるのか、心許ないものだと私は憂う。

❏部分から全体へ広げていく学びを誘導
自然科学の研究発表会にせよ、ロボコン競技にせよ、実際には学校の定期試験以上に教育効果をあげていると思われる。それに準備し、参加することで学べる内容は、学校の正規カリキュラムを凌ぐ。教科書を隅から隅まで教えることを教育だと感じている者にとっては、研究発表会のような場は酷く限られた偏った知識しか学ぶことができない学校教育としては不完全な内容だと思うことであろう。しかし、実際には、掛け替えのない学びの場を提供している。

確かに、限られた対象に違いないが、その限られた対象についてフルセットを学ぶことになるのだ。つまり通常なら既に確立された知識を横断的に学ぶ。それに対し、探究学習は正解のない対象に対し、新しく知見を獲得していくプロセスそのものを縦断的に学ぶ。多くの場合、選んだ研究テーマが被ることはない。その結果、研究発表会ではお互いの選ばなかったテーマについて、理解度や関心度にバラツキは生じるものの、お互いに経験できなかった対象に関してお互いに経験を積んできた探究の手法(その根本は同じ)を通じて学び合うことができる。その学びたるや、通常の授業や試験では推し量れない経験に基づく学びであり、自分も経験してきたことだからこそ他人の取り組みに想いを馳せることができるのだ。これは明らかに正規カリキュラムとは異質であるが、通常の学校教育ごときでは絶対に到達できない境地である。


↑研究発表会・会場における質疑応答

❏成績という包装紙を望むか楽しさという中身を望むか
これは、経験した者でないと解らない。そして正直に言えば、好成績を収めるだけなら唯一の正解を暗記して高得点を得た方が遥かに楽である。しかし、これが「学び」であろうはずがない。ではなぜ、苦労して探究活動を行うのか? それは第一に楽しさであり、次にホンモノの学びであるゆえ、充足感があるからであろう。先のロボコン全国大会準優勝の主将も苦労して勝ち進んで行くことで学びや満足があったはずであるが、無慈悲な教師が課したペーパー試験ごときに敢え無くも駆逐されて行ったのだ。その無念足るや、いかほどのものだったか知れない。

究極の選択は、「包装紙か、中身か」いずれの方を選ぶか、に尽きると思う。当然、中身であるべきであるが、現実的には大した価値のない包装紙の方をこの国の教育関係者は有難がってきたのではないかと思う。大学も高校も、企業も役所も、マスコミも政府も・・。恥ずかし気もなく、どこの大学に何人合格させたとか、どこの会社にはどこの大学から採用されたとか、中身を吟味することなく社会を煽ってきた。いつまで続けていくのかを、見届けたいものである(竹内)。