❏フォレスト出版の非売品『THE SECRET BOOK』から
先日、自宅に1冊の冊子が届いた。フォレスト出版(株)の太田宏社長のまえがきに出版社から「あなたへのギフト」だと記されていました。ハガキを送ったのかネット上で登録したのか、どんな経緯で冊子が届いたのか記憶がありません。しかし、同社が擁する5人のベストセラー作家、石井裕之氏から本田健氏が書き下ろした章の2番手で苫米地英人氏の原稿が収録されていた。書誌学的な記載をしようにも、刊行年月日も刻印されていない。確かに読者限定の特別な冊子だと言えるのでしょう。

↑文字通り『秘密の本』(非売品)
❏脳科学でみる「学習できた」瞬間とは?
ここで、苫米地氏が主張している「新しい学習法」は「これまでの学習法」とは違うと主張します。つまり、学習で得た知識が運用されたときに初めて、知識というものが本当に理解されることになると指摘します。これは私自身が、学生時代に実習レポートを作成する際に「規定事項」をまとめるだけでなく、自分で見つけた課題を1つ添えて、学んだ事項を応用した例を付け加えたことで知識や技術を自分の血肉にしてきたプロセスが効果的であったことを裏づけてくれます。
さらに、氏は多くの人が、「学校でお勉強しました。お勉強したときに理解ができました」と思ってしまうが、学校で学んだことを体験できて、その知識が利用されて初めて、その知識が理解したと論を展開しています。そして氏は、「学習時にできるだけ環境をリアル(なゲシュタルト) に近づける必要があります。」と結んでいます。
この辺りは故・本田宗一郎氏が「体験してみて初めて解ったって言えるんだね。」と体験的に語ってきた逸話とも重なります。苫米地氏と本田氏では、バックグラウンドが全く正反対ですが、主張していることの本質は同じで、私自身が学生時代から自らの意思で実践してきた学びの方法とも一致しています。
❏当事者がいて、実際の場面で、学問誕生の本場で・・の三拍子
苫米地氏は上記の3点が揃うことが理想だと指摘しています。具体的には、放送大学は内容が解っている講師が専門家として登場するので評価しています。それなら高校教諭は例外を除けば多くは「受け売り」なのでリアリティがありません。聞き手はつまらなく感じて仕方ありません。次に、学習者本人が社会的現場でリアリティーを体験して初めて知識の習得となると指摘します。これは、インターンシップなど体験学習の有効性を示唆しています。さらに学問生誕の地、西欧で学ぶことが理想と博士は指摘します。
してみると、私自身、学生時代から大学へは定期試験と実習を受けに通う程度で、研究所や企業の実験室に日参し、リアルに触れてきた学びが自分を鍛えてくれたことが改めて実感します。しかも、先輩から学んだ細菌学の技法を海洋細菌に転用し、さらに廃水処理へ応用してきました。加えて、古典的な手法が賞味期限になると、途上国のタイで延長利用し、さらに使えなくなると、英国へ渡って周辺情報と伴に分子生物学を学び、かつ英語を実用レベルにブラッシュアップする機会に恵まれました。タネを明かせば、その都度、苦肉の策で行ってきた取り組みが後々、功を奏したきたことがわかります。
❏「~について学ぶ」と「~を学ぶ」は全然違う
苫米地氏に指摘されるまでもなく、日本の英語教育は「英語に関する知識」を対象としている学びで、「英語そのもの」を対象にしていないことは明らかで、それが英語教育を無効なシステムに押し留めている元凶だと言えるでしょう。知識というモノは、学習者本人が使って初めて自分のモノになると苫米地氏は指摘します。つまりネイティブスピーカーと喋ったときに初めて英語を習得したという実感が沸くカラクリだと語ります。同様に、氏は日本にはコンピュータ科学の専門家がいないので、米国へ留学したと語っています。元来、学問は欧州で生まれ、米国で遅れて発達し、日本では学問を生んだことも育てたこともない辺境の地だと語ります。
日本の地で生まれた(理科の)仮説実験授業にしても、その(教育学上の)方法論を生んだのはまごうことなき日本(板倉聖宣氏が創始)ですが、その骨子は「科学史」に基づく理科学習法の一つのスタイル(表現型)であり、科学そのもの、ましては科学研究の方法論(遺伝子)を習得することではありません。仮説実験授業の延長戦上に、大学進学や博士号取得がないことからも明らかです。それは、「英文法」をどれほど研究しても「英語」という言語を実用で使いこなせるようにならない事実と符合するものです。
同様に、仮説実験授業で理科嫌いを理科好きにすることに貢献できるでしょうが、その理科好きが理科の知識や(百歩譲って)科学思考のセンスを磨くことになるかも知れないが、その生徒が技術者として実務に就く保証も、科学研究者に育つことも、技術士や博士号を取得する道も保証が難しいでしょう。これは、あるコトに対する知識が豊富であることと、そのコトに関する専門家になる道とは、似て非なる世界(苫米地氏の言葉を借りれば「全然違う」)であり、袋小路に入る道を同じに扱うことは無理です。
苫米地氏のこの原稿には商業出版ではないためか未完の、しかし示唆に富む記述が散見します。我々、スーパーサイエンスコースでは育った生徒(高校生)の中には、私に提案してきたり、示唆に富む意見を出してくれる生徒も生まれています。特に、中学校以来、無我夢中で駆け抜けてきた自分には、どうやって体得してきたのか自分でも気づかない点が多々あり、それらは生徒の成長ぶりを通して自分自身が今から確認できている有り様です。いつの日か続きを書くことになるだろうと思います(竹内)。
先日、自宅に1冊の冊子が届いた。フォレスト出版(株)の太田宏社長のまえがきに出版社から「あなたへのギフト」だと記されていました。ハガキを送ったのかネット上で登録したのか、どんな経緯で冊子が届いたのか記憶がありません。しかし、同社が擁する5人のベストセラー作家、石井裕之氏から本田健氏が書き下ろした章の2番手で苫米地英人氏の原稿が収録されていた。書誌学的な記載をしようにも、刊行年月日も刻印されていない。確かに読者限定の特別な冊子だと言えるのでしょう。

↑文字通り『秘密の本』(非売品)
❏脳科学でみる「学習できた」瞬間とは?
ここで、苫米地氏が主張している「新しい学習法」は「これまでの学習法」とは違うと主張します。つまり、学習で得た知識が運用されたときに初めて、知識というものが本当に理解されることになると指摘します。これは私自身が、学生時代に実習レポートを作成する際に「規定事項」をまとめるだけでなく、自分で見つけた課題を1つ添えて、学んだ事項を応用した例を付け加えたことで知識や技術を自分の血肉にしてきたプロセスが効果的であったことを裏づけてくれます。
さらに、氏は多くの人が、「学校でお勉強しました。お勉強したときに理解ができました」と思ってしまうが、学校で学んだことを体験できて、その知識が利用されて初めて、その知識が理解したと論を展開しています。そして氏は、「学習時にできるだけ環境をリアル(なゲシュタルト) に近づける必要があります。」と結んでいます。
この辺りは故・本田宗一郎氏が「体験してみて初めて解ったって言えるんだね。」と体験的に語ってきた逸話とも重なります。苫米地氏と本田氏では、バックグラウンドが全く正反対ですが、主張していることの本質は同じで、私自身が学生時代から自らの意思で実践してきた学びの方法とも一致しています。
❏当事者がいて、実際の場面で、学問誕生の本場で・・の三拍子
苫米地氏は上記の3点が揃うことが理想だと指摘しています。具体的には、放送大学は内容が解っている講師が専門家として登場するので評価しています。それなら高校教諭は例外を除けば多くは「受け売り」なのでリアリティがありません。聞き手はつまらなく感じて仕方ありません。次に、学習者本人が社会的現場でリアリティーを体験して初めて知識の習得となると指摘します。これは、インターンシップなど体験学習の有効性を示唆しています。さらに学問生誕の地、西欧で学ぶことが理想と博士は指摘します。
してみると、私自身、学生時代から大学へは定期試験と実習を受けに通う程度で、研究所や企業の実験室に日参し、リアルに触れてきた学びが自分を鍛えてくれたことが改めて実感します。しかも、先輩から学んだ細菌学の技法を海洋細菌に転用し、さらに廃水処理へ応用してきました。加えて、古典的な手法が賞味期限になると、途上国のタイで延長利用し、さらに使えなくなると、英国へ渡って周辺情報と伴に分子生物学を学び、かつ英語を実用レベルにブラッシュアップする機会に恵まれました。タネを明かせば、その都度、苦肉の策で行ってきた取り組みが後々、功を奏したきたことがわかります。
❏「~について学ぶ」と「~を学ぶ」は全然違う
苫米地氏に指摘されるまでもなく、日本の英語教育は「英語に関する知識」を対象としている学びで、「英語そのもの」を対象にしていないことは明らかで、それが英語教育を無効なシステムに押し留めている元凶だと言えるでしょう。知識というモノは、学習者本人が使って初めて自分のモノになると苫米地氏は指摘します。つまりネイティブスピーカーと喋ったときに初めて英語を習得したという実感が沸くカラクリだと語ります。同様に、氏は日本にはコンピュータ科学の専門家がいないので、米国へ留学したと語っています。元来、学問は欧州で生まれ、米国で遅れて発達し、日本では学問を生んだことも育てたこともない辺境の地だと語ります。
日本の地で生まれた(理科の)仮説実験授業にしても、その(教育学上の)方法論を生んだのはまごうことなき日本(板倉聖宣氏が創始)ですが、その骨子は「科学史」に基づく理科学習法の一つのスタイル(表現型)であり、科学そのもの、ましては科学研究の方法論(遺伝子)を習得することではありません。仮説実験授業の延長戦上に、大学進学や博士号取得がないことからも明らかです。それは、「英文法」をどれほど研究しても「英語」という言語を実用で使いこなせるようにならない事実と符合するものです。
同様に、仮説実験授業で理科嫌いを理科好きにすることに貢献できるでしょうが、その理科好きが理科の知識や(百歩譲って)科学思考のセンスを磨くことになるかも知れないが、その生徒が技術者として実務に就く保証も、科学研究者に育つことも、技術士や博士号を取得する道も保証が難しいでしょう。これは、あるコトに対する知識が豊富であることと、そのコトに関する専門家になる道とは、似て非なる世界(苫米地氏の言葉を借りれば「全然違う」)であり、袋小路に入る道を同じに扱うことは無理です。
苫米地氏のこの原稿には商業出版ではないためか未完の、しかし示唆に富む記述が散見します。我々、スーパーサイエンスコースでは育った生徒(高校生)の中には、私に提案してきたり、示唆に富む意見を出してくれる生徒も生まれています。特に、中学校以来、無我夢中で駆け抜けてきた自分には、どうやって体得してきたのか自分でも気づかない点が多々あり、それらは生徒の成長ぶりを通して自分自身が今から確認できている有り様です。いつの日か続きを書くことになるだろうと思います(竹内)。