❏インターナショナル校長の嘆き
1998年にバンコクへ渡航した時、子供3人をインターナショナル校へ入れた。その時、英国人の校長が「保護者はまるでトヨタの工場にでも子供を預ける気になっている。」と日本人である私たち夫妻に向かって嘆いたことがあった。「学校はフル・オートメーションだ」と錯覚されているのだ。以前から教育に対する拘りも想いもあったけれど、当時の私は今ほどの熱意はなかったのかも知れない。今、改めて振り返ると、学校教育に対する想いの温度差は認める。

しかし、その校長が示した考え方は、その後の私に刻印した気がする。それで広島の高専で教育問題に突き当たった時、ふと「工場に擬えた」考えから"factory model"をキーワードに検索したら興味深いサイトに辿り着いたのだ。それが今をときめく、ケン・ロビンソン卿のサイトであった:
"Moving Our Education System Forward"
http://creativecurriculumisabella.weebly.com/index.html



このような記事を見ると、学校教育の問題として抱えるのは世界で共通していることがうかがえる。しかし、日本の学校教育の画一化の程度は世界でも突出し、以前OECDが「18歳の特定の日に一生が決まってしまうような日本型システムは非人道的である。」と指摘した経緯がある。彼らはPISA試験のため国際的な教育制度を比較をした結果、日本の持つ特異性を問題視したからである。彼らは「時代とともに、求められる学力の内容は移り変わることを日本は学ぶべきである。」とも指摘している。

❏学校が生徒を作るのか、生徒が育つ場とするのか
多くの人は、錯覚している。嘆かわしいことに、当事者のみならず社会の目も・・だ。特定の名称の学校の門(文字通り「名門」)をくぐれば、その名門校の価値に相応しいタグが付されて門から排出されるのか? 確かに学校が持つ伝統、教員、学友、先輩・後輩(いわゆる同窓生)が醸し出す効果はあるだろう。しかし、そのような誘引物は良い人も集める代わりに、そのような誘引物に集まってしまう心ない者も集めてしまうに違いない。その良からぬ者の中には、名声にあやかろうという人から、その権威を利用したい不心得者までをも、集めてしまう宿業を持つ。

皮肉にも価値※がない対象に対しては、ずる賢い者も集まらない。価値を「活かす」のではなく、単に「利用する」ことが狙いだからだ。ここで「利用する」の真意は「ラクする」ことである。つまり名声に憧れる純朴さも、虎の威を借る悪意も、程度の差は雲泥だが、心得えとしてはマイナス側に振れた状態である。これは人間性の弱さ(心得え違い)であり、すなわち、業欲である。※本人の思う「(主体)価値」ではなく、他人の目からはどう見えるかの、虚実な「(相対)価値」である!

❏釈尊が捉えた業欲(根本煩悩)、欧米が行使した智慧
このような弊害から脱却する智慧だろう、欧米の大学ではしばしば卒業生を出身大学に残さない不文律がある(当事者や時代によって例外はあるが、原則としては卒業生は他所へ転出)。要するに、名門大学を卒業した者であれば、その能力を活かして地方大学へ赴いて、その新天地を良くするための貢献が求められる・・という考え方である。実力ある者には「ラク」することを許さず、「努力」することを求める社会を形成していくシステム(仕組みのデザイン)である。

努力を厭わずに赴任した教員がいる学校であれば、生徒も育つに違いない。ひいては国全体が良くなる仕組みを持つ。それに反し日本は序列づけを好み、権威と名声を崇め、上も下も、ことごとく貶めてきた。上は奢り、下は諦め。国全体を崩壊させる自滅装置を備えたシステムを後生大事にしてきた。愚かで低俗だと思う。しかし、その動機の発端は「ラク」をしたいという「人間性の弱さ」であった。日本は仏教国でありながら、釈尊が密かに闘った「人が持つ業欲」を承伏させるヒントすら活かせず、かつ社会(特権階級たる最高学府)の運営に使うことをし損ね、皮肉にも「業」を知らないキリスト教国の方が巧みに「人間が陥る」障害を乗り越えてきたのだ。

改めて、私からの問いである。ここで言う「ラク」をした挙句、そこには真の「ラク」があるのだろうか? 否である。前方の「ラク」は「手抜き」、後方の「ラク」は「満足」と記すべき。「ラク」して、そんな安っぽい場所に「宝物」があろうはずがないのである(竹内)。