❏♪みんなは言うけれど、嘘だと思う・・♪
多くの日本人が漠然と英語を喋りたいという幻想に囚われています。幻想だと私が指摘する理由は、私の「では、英語が喋れたとしたら何を話すの?」という問いに対し、ほぼ例外なく返答に詰まるのです。
これは、日本人が如何にモノゴトを考えずに言葉を口にしているか・・を物語るエピソードです。英語を身につけた先をありありとイメージせず、漠然と「カッコいい」とか「便利そう」とか期待感を抱いている。私自身、英語ができる/できない以前に、これは由々しき問題だというように感じます。
❏日本語の柔軟な利便性ゆえの落とし穴
私は日本人として日本語は優れた言語だと認識している者です。世界広しと言えども、縦にも横にも書ける言語は、そうザラにありません。特に、「漢字仮名交じり文」は世界最強とも思っています。特に、中国人学生と交流してからは、日本語がカタカナを用いて外来語を取り込むようになったことで科学技術の輸入に(短期的には)大きく寄与したことを実感しました。しかし、「利便性」の陰に(長期的には)大きな「落とし穴」もあったのです。これは利便性ゆえに、予め気づいて補っておくべきでした。
しかし、日本語が持つ欠陥を補う論理性が必要だったから所詮、無理だった訳なのです。ここに切り込むためには、新たな認識をするという「覚悟」が必要です。それが人類の東西に分かれて異なる言語・文化を築いていったという人類がかつて行った長い旅路まで遡って意識するという覚悟です。これを一旦、意識してしまうと、言語同士を「訳す」行為の愚かさ(無意味さ)に気づきます。言語間の違いを理解・吟味することこそが「学び」だから、訳したら異なる言語が存在し合う意義が台なしなのです。
いえ、私は通訳とか翻訳という仕事を追放したいのではありません。地球上の大多数の人間が、人類が辿った歴史の中で、出アフリカ後の各グループが辿った歴史に想いを馳せて戴き、その上で母国語、そして外国語を学んで行って欲しいのです。それを意識すると、入試英語なんか酷く「チンケ」に思えてくるはずで、かつ言語という「人類共通の財産」に対し、私は刮目して目を向けて欲しいのです。

↑日英両語の言語距離が遠いカラクリ
❏日本語で科学を学ぶことの愚かさ
明治以降、日本人は大いに努力しました。そして奮闘してきました。それは心から認めます。が、当時、インターネットで繋がれることが予測されたでしょうか? 航空機で世界を股に掛ける時代が来ると想像したでしょうか? それは無理です。でも、もう困難は克服されたのです。
世界に日本の「教科英語」が用いている文法書はありません。実用レベルで使いられている現代の英文法書は、例えばMichael Swan著”Practical English Usage”のような文例集です。日本の英文法は昔の英語に対する研究図書を引き継いだ流れです。改めてその伝統も努力も認めます。その学び方が有効であった段階もありました。しかし、時代はとうに移り変わったのです。それでも、このまま間違った道を歩み続けますか? 先人も「もう我々の足跡などいいから、新しい時代の学びを始めて欲しい。」と訴えているように私には聞こえて来るのです。その気持ちに答えてあげることが誠意ではないでしょうか?
多くの日本人は日本語で科学を学んできて平気でいます。では、伺いますが、どうして日本の大学教授が世界中の大学で働かないのですか? 国際学会へ行っても日本の研究者だけグループで固まっているのですか? 大きな国際学会はいわば、「同窓会」ですよ。ホンモノの国際会議は秘密裏に開催されます(例えば、Natureへ論文を投稿する前の段階では、限られた二国間で)。日本語で科学を学んでいたら、この輪の中へ入れません。なまじ日本は経済力があったから、見做し世界の一員に加わっているだけです。日本人は日本の工業製品ほど世界で知られてません。今までは仕方ありません。しかし、日本の経済成長(も日本人としての成長も)が止まった今、舵を切らないと日本は間もなく手遅れになります。
❏論理性がないと、英文1行すら書けません
日本の学校教育は「文章を書かせる」機会がほとんどありません。異常に「正誤」に拘るからです。「正誤」に膠着する理由は、判定が容易で採点がラクだから。ラクな分だけ、見事なまでに教員も学習者も、成長してこれませんでした。それが今の日本の現状です。日本人が生真面目である・・という理由が幸い(あるいは災い)して、ボロ隠しとなり(あるいはボロ丸出しにならずに済み)ました。これが、日本人の思考力が劣化していったカラクリです。電車内に目を向けてみて下さい。誰もがスマホに操られ、ヒトというよりサルの集団が乗っているようには見えませんか? 私は日本へ帰還して異様に感じています。
日本語が持つ感性を気づき、世界は歓迎してくれています。足りないのは日本語の論理性の欠如を補う努力です。これを翻訳や通訳で済ませてしまっては、もったいないのです。日本語の感性はそのままで、英語を初めとする外国語が持つ論理性を言語の良さを残したまま学ぶ姿勢へシフトしていくことが今、求められています。人生が幾重にも豊かになるか知れません。その権利を学校の教科英語は文系・理系を問わず侵害し、日本人を世界最下位へと没落させてきました。
ハッキリ言って、日本人は外国語を学ぶ準備ができていません。ホントの意味では、英語を教わってもいなかったのです。だから今からゼロから別の道から始めたらイイのです。学校がダメなら我道を進んで下さい。私は自分が16歳の頃から、一人で抵抗をしてきました。授業も受験もウザい限りでしたが、何とか海外勤務も留学も移民も経験してきました。願わくば、私の先へと進んで欲しいのです(竹内)。
付記:冒頭の書き出し部分で、石川ひとみ歌唱、岡田冨美子作詞、玉置浩二作曲、荻田光雄編曲の『恋』の歌詞をモジらせて戴きました。(歌詞の解釈は以下の熱心なファン・サイトをご参照下さい)。
多くの日本人が漠然と英語を喋りたいという幻想に囚われています。幻想だと私が指摘する理由は、私の「では、英語が喋れたとしたら何を話すの?」という問いに対し、ほぼ例外なく返答に詰まるのです。
これは、日本人が如何にモノゴトを考えずに言葉を口にしているか・・を物語るエピソードです。英語を身につけた先をありありとイメージせず、漠然と「カッコいい」とか「便利そう」とか期待感を抱いている。私自身、英語ができる/できない以前に、これは由々しき問題だというように感じます。
❏日本語の柔軟な利便性ゆえの落とし穴
私は日本人として日本語は優れた言語だと認識している者です。世界広しと言えども、縦にも横にも書ける言語は、そうザラにありません。特に、「漢字仮名交じり文」は世界最強とも思っています。特に、中国人学生と交流してからは、日本語がカタカナを用いて外来語を取り込むようになったことで科学技術の輸入に(短期的には)大きく寄与したことを実感しました。しかし、「利便性」の陰に(長期的には)大きな「落とし穴」もあったのです。これは利便性ゆえに、予め気づいて補っておくべきでした。
しかし、日本語が持つ欠陥を補う論理性が必要だったから所詮、無理だった訳なのです。ここに切り込むためには、新たな認識をするという「覚悟」が必要です。それが人類の東西に分かれて異なる言語・文化を築いていったという人類がかつて行った長い旅路まで遡って意識するという覚悟です。これを一旦、意識してしまうと、言語同士を「訳す」行為の愚かさ(無意味さ)に気づきます。言語間の違いを理解・吟味することこそが「学び」だから、訳したら異なる言語が存在し合う意義が台なしなのです。
いえ、私は通訳とか翻訳という仕事を追放したいのではありません。地球上の大多数の人間が、人類が辿った歴史の中で、出アフリカ後の各グループが辿った歴史に想いを馳せて戴き、その上で母国語、そして外国語を学んで行って欲しいのです。それを意識すると、入試英語なんか酷く「チンケ」に思えてくるはずで、かつ言語という「人類共通の財産」に対し、私は刮目して目を向けて欲しいのです。

↑日英両語の言語距離が遠いカラクリ
❏日本語で科学を学ぶことの愚かさ
明治以降、日本人は大いに努力しました。そして奮闘してきました。それは心から認めます。が、当時、インターネットで繋がれることが予測されたでしょうか? 航空機で世界を股に掛ける時代が来ると想像したでしょうか? それは無理です。でも、もう困難は克服されたのです。
世界に日本の「教科英語」が用いている文法書はありません。実用レベルで使いられている現代の英文法書は、例えばMichael Swan著”Practical English Usage”のような文例集です。日本の英文法は昔の英語に対する研究図書を引き継いだ流れです。改めてその伝統も努力も認めます。その学び方が有効であった段階もありました。しかし、時代はとうに移り変わったのです。それでも、このまま間違った道を歩み続けますか? 先人も「もう我々の足跡などいいから、新しい時代の学びを始めて欲しい。」と訴えているように私には聞こえて来るのです。その気持ちに答えてあげることが誠意ではないでしょうか?
多くの日本人は日本語で科学を学んできて平気でいます。では、伺いますが、どうして日本の大学教授が世界中の大学で働かないのですか? 国際学会へ行っても日本の研究者だけグループで固まっているのですか? 大きな国際学会はいわば、「同窓会」ですよ。ホンモノの国際会議は秘密裏に開催されます(例えば、Natureへ論文を投稿する前の段階では、限られた二国間で)。日本語で科学を学んでいたら、この輪の中へ入れません。なまじ日本は経済力があったから、見做し世界の一員に加わっているだけです。日本人は日本の工業製品ほど世界で知られてません。今までは仕方ありません。しかし、日本の経済成長(も日本人としての成長も)が止まった今、舵を切らないと日本は間もなく手遅れになります。
❏論理性がないと、英文1行すら書けません
日本の学校教育は「文章を書かせる」機会がほとんどありません。異常に「正誤」に拘るからです。「正誤」に膠着する理由は、判定が容易で採点がラクだから。ラクな分だけ、見事なまでに教員も学習者も、成長してこれませんでした。それが今の日本の現状です。日本人が生真面目である・・という理由が幸い(あるいは災い)して、ボロ隠しとなり(あるいはボロ丸出しにならずに済み)ました。これが、日本人の思考力が劣化していったカラクリです。電車内に目を向けてみて下さい。誰もがスマホに操られ、ヒトというよりサルの集団が乗っているようには見えませんか? 私は日本へ帰還して異様に感じています。
日本語が持つ感性を気づき、世界は歓迎してくれています。足りないのは日本語の論理性の欠如を補う努力です。これを翻訳や通訳で済ませてしまっては、もったいないのです。日本語の感性はそのままで、英語を初めとする外国語が持つ論理性を言語の良さを残したまま学ぶ姿勢へシフトしていくことが今、求められています。人生が幾重にも豊かになるか知れません。その権利を学校の教科英語は文系・理系を問わず侵害し、日本人を世界最下位へと没落させてきました。
ハッキリ言って、日本人は外国語を学ぶ準備ができていません。ホントの意味では、英語を教わってもいなかったのです。だから今からゼロから別の道から始めたらイイのです。学校がダメなら我道を進んで下さい。私は自分が16歳の頃から、一人で抵抗をしてきました。授業も受験もウザい限りでしたが、何とか海外勤務も留学も移民も経験してきました。願わくば、私の先へと進んで欲しいのです(竹内)。
付記:冒頭の書き出し部分で、石川ひとみ歌唱、岡田冨美子作詞、玉置浩二作曲、荻田光雄編曲の『恋』の歌詞をモジらせて戴きました。(歌詞の解釈は以下の熱心なファン・サイトをご参照下さい)。