❏デザインは実在する
そう感じたのは若い頃、稀代のカーデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした彼の作品アッソ・デ・フィオーリをいすゞ自動車が忠実に量産化したピアッツアに乗っていた時である。彼の作品は実用性に優れており、故に「パッケージング」の勝利と理解されている。
車をどの角度から見ても、あるいはどの一部を取り出して見ても、即座にそれと判る完成度の高さを誇っていた。無論、量産車にシェルを被せただけなので、無理もあり、妙なラインが皆無な訳でもなかったが、「この世に、デザインというものが存在するのだな。」と知るに足る内容を持っていたと、つくづくと思う。これは車だけに限らない。工業製品全般に言える。特に、イタリアは工業デザインに優れているし、英国の研究室でイタリア娘が隣の実験台で研究していたが、ファッションとかパワーポイントのデザインのセンスは抜群であった。アイシャドーをしているかに見えたのは、単純に目の周りの毛細血管が肌を透けて見えるから目の周囲がダークに見えていたのだと知り、驚いた。
無論、日本のアニメが大好きで、幼少の頃からTVで見て育ったそうだ。『釣りキチ三平』が良かった・・と言われても、自分は名前は知っていても放送を見ていなかったので返答に困ったが・・。向こうからも日本の良さは感じてくれていたらしい。さすがは日独伊三国同盟を交わした間柄と感心した。

↑いすゞ・ピアッツア量産型のデザイン
❏学校教育にもデザインが必要
デザインのない車はただ人と荷物を乗せて、走るだけである。確かに、それでも用事は足りる。デザインは、そこがそう「造りこまれ」てなければならない理由があってこそ、初めて成り立つ。学校教育にも、「そうなる」あるいは「そうする」べき合理的な理由があって初めて、教育の効果が生じる。こと教育に関しては「見栄え」でなく、成長したという実感が結果である。それが、これまでは学校側や教員側の都合で教育がデザインされてきた・・と言える。つまり学習者という存在に目を向けてこなかった。
誰のための学校かと問われたら、答えは言わずと知れた通りだったのである。生徒一人ひとりの学力や個性に合わせた教育を施せば、成長するかのような議論が最近、多くなってきている。が、これは、日本語に特有の言葉の言い換え(トートロジー)に過ぎないから早晩、耳障りの良さから来る錯覚で打ち止めである。これからの日本に必要となるのは、フィーリング(感覚)ではなくてロジック(論理)なのである。
❏ロジックを組み立てていくことが真の「教育デザイン」
車や家電など具象的な対象と大きく異なり、教育や組織のように抽象度が高い対象物をデザインしていくためには、ロジックの組み立てが緻密であり、いちいち合理性や意義(rationale)を検証していく過程を経て、フィードバックさせて行かなければならない。これは、一般の日本人が苦手とする領域であろう。それゆえ教育デザインは欧米で進んでおり、国際バカロレア(IB)は一つのスタンダードを提示してくれている。とりわけ「10の学習者像」には非の打ち所がない。私自身、我が子3名を国連校(バンコク)に入学させた経験があるので、良い点も悪い点も了解しているから盲目的に絶賛する気はない。日本の学校が勝っている点もあるのだが、IBが真摯に教育をデザインしようと努めた経緯は理解できるつもりである。
❏ここから先は、誰も踏み込んでいない未開の地
私は国際バカロレア(IB)にも不満がある。それは、日本語や日本文化の真の良さが反映されていないからである。無理もない。正確に言えば、欧米人は「日本には何かがある。」ことに感づいている。しかし、彼らは掴み切れていない。それは、日本語や日本文化が物理的に遠いだけでなくメンタルにも遠いから完全に掌握できていないのだ。未来を解く上で重要な鍵が日本に残されていることは確かであろう。
私はそれを感じ、英国移民の道を断って、日本へ戻ってきた。そして国立高専という高校と大学が合体したような世界に例のない変則的な校種の学校で教授及び国際交流室長を兼務してきた。私は定年まで5年を残してきた。しかし、最初の5年間で必要な実験は済ませてしまったのだ。言わば、今ここでは5年間に掴んだ手がかりの有効性を実証しようとしている。ここから先は、少し慎重に議論を進めて行こうと思っている。時代全体を見ている私は、決して出し惜しみしていくつもりは毛頭ない。ここから先の歩み方はペースダウンしたように見えるかも知れないが、生徒と一緒に私自身も日々、成長していると実感しているので、そこは信じて戴きたい(竹内)。
そう感じたのは若い頃、稀代のカーデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした彼の作品アッソ・デ・フィオーリをいすゞ自動車が忠実に量産化したピアッツアに乗っていた時である。彼の作品は実用性に優れており、故に「パッケージング」の勝利と理解されている。
車をどの角度から見ても、あるいはどの一部を取り出して見ても、即座にそれと判る完成度の高さを誇っていた。無論、量産車にシェルを被せただけなので、無理もあり、妙なラインが皆無な訳でもなかったが、「この世に、デザインというものが存在するのだな。」と知るに足る内容を持っていたと、つくづくと思う。これは車だけに限らない。工業製品全般に言える。特に、イタリアは工業デザインに優れているし、英国の研究室でイタリア娘が隣の実験台で研究していたが、ファッションとかパワーポイントのデザインのセンスは抜群であった。アイシャドーをしているかに見えたのは、単純に目の周りの毛細血管が肌を透けて見えるから目の周囲がダークに見えていたのだと知り、驚いた。
無論、日本のアニメが大好きで、幼少の頃からTVで見て育ったそうだ。『釣りキチ三平』が良かった・・と言われても、自分は名前は知っていても放送を見ていなかったので返答に困ったが・・。向こうからも日本の良さは感じてくれていたらしい。さすがは日独伊三国同盟を交わした間柄と感心した。

↑いすゞ・ピアッツア量産型のデザイン
❏学校教育にもデザインが必要
デザインのない車はただ人と荷物を乗せて、走るだけである。確かに、それでも用事は足りる。デザインは、そこがそう「造りこまれ」てなければならない理由があってこそ、初めて成り立つ。学校教育にも、「そうなる」あるいは「そうする」べき合理的な理由があって初めて、教育の効果が生じる。こと教育に関しては「見栄え」でなく、成長したという実感が結果である。それが、これまでは学校側や教員側の都合で教育がデザインされてきた・・と言える。つまり学習者という存在に目を向けてこなかった。
誰のための学校かと問われたら、答えは言わずと知れた通りだったのである。生徒一人ひとりの学力や個性に合わせた教育を施せば、成長するかのような議論が最近、多くなってきている。が、これは、日本語に特有の言葉の言い換え(トートロジー)に過ぎないから早晩、耳障りの良さから来る錯覚で打ち止めである。これからの日本に必要となるのは、フィーリング(感覚)ではなくてロジック(論理)なのである。
❏ロジックを組み立てていくことが真の「教育デザイン」
車や家電など具象的な対象と大きく異なり、教育や組織のように抽象度が高い対象物をデザインしていくためには、ロジックの組み立てが緻密であり、いちいち合理性や意義(rationale)を検証していく過程を経て、フィードバックさせて行かなければならない。これは、一般の日本人が苦手とする領域であろう。それゆえ教育デザインは欧米で進んでおり、国際バカロレア(IB)は一つのスタンダードを提示してくれている。とりわけ「10の学習者像」には非の打ち所がない。私自身、我が子3名を国連校(バンコク)に入学させた経験があるので、良い点も悪い点も了解しているから盲目的に絶賛する気はない。日本の学校が勝っている点もあるのだが、IBが真摯に教育をデザインしようと努めた経緯は理解できるつもりである。
❏ここから先は、誰も踏み込んでいない未開の地
私は国際バカロレア(IB)にも不満がある。それは、日本語や日本文化の真の良さが反映されていないからである。無理もない。正確に言えば、欧米人は「日本には何かがある。」ことに感づいている。しかし、彼らは掴み切れていない。それは、日本語や日本文化が物理的に遠いだけでなくメンタルにも遠いから完全に掌握できていないのだ。未来を解く上で重要な鍵が日本に残されていることは確かであろう。
私はそれを感じ、英国移民の道を断って、日本へ戻ってきた。そして国立高専という高校と大学が合体したような世界に例のない変則的な校種の学校で教授及び国際交流室長を兼務してきた。私は定年まで5年を残してきた。しかし、最初の5年間で必要な実験は済ませてしまったのだ。言わば、今ここでは5年間に掴んだ手がかりの有効性を実証しようとしている。ここから先は、少し慎重に議論を進めて行こうと思っている。時代全体を見ている私は、決して出し惜しみしていくつもりは毛頭ない。ここから先の歩み方はペースダウンしたように見えるかも知れないが、生徒と一緒に私自身も日々、成長していると実感しているので、そこは信じて戴きたい(竹内)。