❏学校教育には「デザイン」された痕跡がない
漫然と作られ、それに縛られているだけにしか見えない。延々と準備体操や素振り練習ばかりさせ、なかなか出番が来ない。来たかと思えば、それが入試だ。受験勉強の賞味期限も合否判定の日にて打ち止め。さて、それまでの努力って何だったんだろうか? 人生最大の成長期なのに。え?「入試に合格すること」だって? でも、「合格した後で、どう繋げていくのだろうか?」まるで後先が設計されていないのだ。
果たして大学の教授陣は、受験勉強が大学入学してから有用と心底、信じているのだろうか? 私はむしろ文章を書ける力を育てる方が大切だと思う。小学校の作文以来、日本の中高大に文章を書かせる教育の場が設定されているのだろうか? 日本語を話しているから、本を読んでいるから、それで日本の成人がまとまった文章を書き、自己表現できると思ったら間違いだと思う。
頬被りしてきたことで大学教員は皆、卒業論文の執筆指導や就活の志望理由書の手直しに膨大な時間と労力を割かれているに違いない。自業自得である。高校課程で文章を書かせて来なかった弊害からだ。答えのある問いに答える練習問題は散々、続けてきても文章を書いて自己表現する訓練を授けてきてない。その年代特有の”自然成長力”を頼りに卒業しているだけの無策。それもこれも、教育の場に学習者が成長し出す「仕掛け」が用意されていないからだ。間違いなくこれは学校教育を設計していく側の怠慢であり、設計不在(教育デザインの思想を欠く)である。
よく(正解が決っている)「学科試験」が「小論文」より高度な知性を評価すると信じて疑わない者がいるが、勘違いも甚だしい。人間の力量など、文章を書かせて言葉を二言三言、交わせば知れるものだ。ただし、判断する側こそ鑑識眼が求められる。海外の大学では、自室で書いた英文エッセイの提出も合否判定に使っている。不正も可能だが、不正して入学して苦労するのは、当の本人だからである。
❏1枚のポスターを1報の論文を、英文で書いた人は何度も書ける
これが、デキル人=騙されなかった人と、デキナイ人=騙されてしまった人との違いである。
今の学校英語の勉強を百年続けても千年続けても、英文で1枚のポスターも1報の論文も書けるようにはならない。これは保証しよう。しかし、ポスター1枚でも、論文1報でもモノにできたら、次からは簡単に後を無限に続けていくことができる。こんなコトは火を見るより明らかなのに、教育の場でそうしようとしない理由が理解できない。1枚のポスターを作るのに必要な英語力を高校生相手に伝えるのは数日間で十分。最初の1枚のポスター制作に用いた英語力で次のポスターに必要な英語力の大半(8~9割)はカバーできてしまうからだ。大部分の英語表現は、とっかえひっかえ使い回しができるし、それこそ自然に”身についた”使える英語力の中核を為すリソースである。え? 内容が偏っている? そう。でも、永遠に届かぬ目標を追うこと、あるいは英語しかできなくなるより余程、現実的ではないだろうか?
恐らく専門分野の論文を英語で書く・・なんてことは敷居が高い世界だと多くの方は感じるだろう。事実は真逆である。専門分野で使われる単語も表現も、ある程度、分野ごとに決っている。だから迷うことはない。当該分野の論文に相応しい英文が決ってくるので中身(考えやデータ)を載せて運ぶ「道具」として論文で使われる英語表現は自ずと限定される。共有すべきは英文でなく内容であり、そのため内容が浮き出るよう奇をてらったような英語表現はふつう要らない。
❏何でもできなければならない・・という思い込み
これは日本人の論理性の欠如に起因している。そう、確かに何でもできれば耳障りは良い。が、現実的だろうか? 「もっともらしいコト」が、イコール「もっともなコト」ではないのだ。何でもできるようになることは一見、素晴らしい。しかし、何でもできるようになって、いったい何をするのか? 一般論は他人事。大切なことは、各自が自分の特性を見極めることであろう。
例えば、私自身、理系志望なのに、いざ試験をすると理系科目より人文社会系科目で点が稼げるタイプであった。だから理系私大より、国公立大学を選ばないと不利になる。また、公務員試験を受けたのも、同じ理由からで、幅広く問われた方が自分自身のボロ隠しなのだ。自己の特性を見極めただけで他意はない。国公立か私立かの選択など、一筋縄では議論できない。官学はそれこそ人が変われば別モノになる責任の所在はなきに等しい。私学には創立者の想いが残っている(少なくとも私はスピリットを感じる)。スピリットなどと言うとバカにする人が必ず居るが、パリにあるパスツール研究所の地下室は霊廟となっていて、パスツール本人が眠っているのだ。現代日本人も、もっと血潮が通ったホンネで生きるようになるべきだと、私は強く願う(竹内)。

↑パスツール研究所(博物館Muse側)
漫然と作られ、それに縛られているだけにしか見えない。延々と準備体操や素振り練習ばかりさせ、なかなか出番が来ない。来たかと思えば、それが入試だ。受験勉強の賞味期限も合否判定の日にて打ち止め。さて、それまでの努力って何だったんだろうか? 人生最大の成長期なのに。え?「入試に合格すること」だって? でも、「合格した後で、どう繋げていくのだろうか?」まるで後先が設計されていないのだ。
果たして大学の教授陣は、受験勉強が大学入学してから有用と心底、信じているのだろうか? 私はむしろ文章を書ける力を育てる方が大切だと思う。小学校の作文以来、日本の中高大に文章を書かせる教育の場が設定されているのだろうか? 日本語を話しているから、本を読んでいるから、それで日本の成人がまとまった文章を書き、自己表現できると思ったら間違いだと思う。
頬被りしてきたことで大学教員は皆、卒業論文の執筆指導や就活の志望理由書の手直しに膨大な時間と労力を割かれているに違いない。自業自得である。高校課程で文章を書かせて来なかった弊害からだ。答えのある問いに答える練習問題は散々、続けてきても文章を書いて自己表現する訓練を授けてきてない。その年代特有の”自然成長力”を頼りに卒業しているだけの無策。それもこれも、教育の場に学習者が成長し出す「仕掛け」が用意されていないからだ。間違いなくこれは学校教育を設計していく側の怠慢であり、設計不在(教育デザインの思想を欠く)である。
よく(正解が決っている)「学科試験」が「小論文」より高度な知性を評価すると信じて疑わない者がいるが、勘違いも甚だしい。人間の力量など、文章を書かせて言葉を二言三言、交わせば知れるものだ。ただし、判断する側こそ鑑識眼が求められる。海外の大学では、自室で書いた英文エッセイの提出も合否判定に使っている。不正も可能だが、不正して入学して苦労するのは、当の本人だからである。
❏1枚のポスターを1報の論文を、英文で書いた人は何度も書ける
これが、デキル人=騙されなかった人と、デキナイ人=騙されてしまった人との違いである。
今の学校英語の勉強を百年続けても千年続けても、英文で1枚のポスターも1報の論文も書けるようにはならない。これは保証しよう。しかし、ポスター1枚でも、論文1報でもモノにできたら、次からは簡単に後を無限に続けていくことができる。こんなコトは火を見るより明らかなのに、教育の場でそうしようとしない理由が理解できない。1枚のポスターを作るのに必要な英語力を高校生相手に伝えるのは数日間で十分。最初の1枚のポスター制作に用いた英語力で次のポスターに必要な英語力の大半(8~9割)はカバーできてしまうからだ。大部分の英語表現は、とっかえひっかえ使い回しができるし、それこそ自然に”身についた”使える英語力の中核を為すリソースである。え? 内容が偏っている? そう。でも、永遠に届かぬ目標を追うこと、あるいは英語しかできなくなるより余程、現実的ではないだろうか?
恐らく専門分野の論文を英語で書く・・なんてことは敷居が高い世界だと多くの方は感じるだろう。事実は真逆である。専門分野で使われる単語も表現も、ある程度、分野ごとに決っている。だから迷うことはない。当該分野の論文に相応しい英文が決ってくるので中身(考えやデータ)を載せて運ぶ「道具」として論文で使われる英語表現は自ずと限定される。共有すべきは英文でなく内容であり、そのため内容が浮き出るよう奇をてらったような英語表現はふつう要らない。
❏何でもできなければならない・・という思い込み
これは日本人の論理性の欠如に起因している。そう、確かに何でもできれば耳障りは良い。が、現実的だろうか? 「もっともらしいコト」が、イコール「もっともなコト」ではないのだ。何でもできるようになることは一見、素晴らしい。しかし、何でもできるようになって、いったい何をするのか? 一般論は他人事。大切なことは、各自が自分の特性を見極めることであろう。
例えば、私自身、理系志望なのに、いざ試験をすると理系科目より人文社会系科目で点が稼げるタイプであった。だから理系私大より、国公立大学を選ばないと不利になる。また、公務員試験を受けたのも、同じ理由からで、幅広く問われた方が自分自身のボロ隠しなのだ。自己の特性を見極めただけで他意はない。国公立か私立かの選択など、一筋縄では議論できない。官学はそれこそ人が変われば別モノになる責任の所在はなきに等しい。私学には創立者の想いが残っている(少なくとも私はスピリットを感じる)。スピリットなどと言うとバカにする人が必ず居るが、パリにあるパスツール研究所の地下室は霊廟となっていて、パスツール本人が眠っているのだ。現代日本人も、もっと血潮が通ったホンネで生きるようになるべきだと、私は強く願う(竹内)。

↑パスツール研究所(博物館Muse側)