❏やってさえいれば、それでイイのか?
効果は問わず、日本はとにかくやっていれさえすればイイ社会。そう、私には映る。例えば、電車。海外の電車は、アナウンスもろくになくドアが締り、走り出す。慣れないと怖い。逆に日本の電車のアナウンスは外国人には騒がしく、お節介に聞こえるそうである。とりあえず無難にアナウンスしておけば由とする親切心にも取れるが、撒き餌のように撒き、責任を回避する姿勢にとれなくもない。
一方、日本社会では電車のアナウンスの賑やかさとは裏腹に、ロクな説明もなく動き出す乗り物(シキタリとも言える)に乗り遅れないようにしないと生きていけない社会のように、私の目には映る。そこで議論が起こらないのは、民族的に均質性の高い社会構成に加え、議論しない空気に馴染んでしまったのだろうか。いまさらながら葬った問題を掘り起こすなど野暮だし、持っての他なのだろう。

↑Cause-Effect関係を示唆するドミノ
❏学校教育は教育効果を検証してきていない
例えば、学校がそうである。小学校までは概して面倒見が良い。しかし、中学校になると突如として様子が様変わりし、定期試験を節目にして学校は回っている。そしてルール通りに予定をこなさないと大変なことになる・・らしい。高校の必修科目の未履修問題では、責任を感じた校長が複数、自殺している。現実的に「履修した」イコール「習得した」ではないのだから、極論すれば教科書の目次を読み上げたのでも構わないのだろう。形骸化していることがわかる。
行うべきだった教育効果の検証を「入試の合否判定」で済ませ頬かむりしてしまったのが実態だろう。そのために「入試」が目を欺くために都合が良かったし、「受験」が終われば思考停止するメンタリティの軽さも日本に特有のまやかしだ。どう考えても、「合否判定イコール教育成果」であろうはずがない。だから日本では、教育は本当の意味では成熟発達してこなかった。ただ、真面目な国民性のために不備がカモフラージュされていて、目立つこともなかったのだろう。
❏生徒を能力をブーストさせることは可能だった
なぜ、私がこの落とし穴に気づいたかと言うと、従来型入試とは別に僅かな指導により生徒自身が火が着いたようにブーストする姿を見せられたからだ。つまり合否判定とは別に、能力がアップしていくことを生徒も教員も体感している。これをどう説明すれば良いのか?
無論、生徒がブーストすれば、その能力向上が反映する試験とマッチングしていたら合格するに違いない。しかし、逆の場合は、どうなのだろうか? つまり真の能力は伸びていないのだが、受験にパスしたような場合である。この場合、受験に成功しても、真の能力は向上していないとしたら合格したら学びを止めてしまう可能性が高いだろう。こう仮定すると、これまで大学生の能力が大学入学時が最大ピークであり、大学がレジャーランドだと揶揄されてきた傾向と見事に符合する気がする。つまり見掛けほど、受験勉強も大学入学も活きていない可能性があった。
❏なぜ日本社会に狡賢い上位層が蔓延してしまったのか?
曰く「勝てば官軍」とか「やった者勝ち」とか、このような風潮が社会の上位層を占めてしまった印象がある。これは、学校教育が健全に機能して来なかったことと関係あるような気がする。
今一度、まとめておきたい。日本の学校教育は、その教育効果を検証すべき活動を「入試」で代用させてきてしまった。その結果、学校教育は本来の効果を引き出せなかったばかりか、間違った誤動作させた結果、その矛盾を無意識であれ容認できる狡賢い人間は生き残り、容認できない真っ当な人間が排除されてきたように私は感じている。
再度、指摘したい。学校教育の効果を「入試の合否判定」で代用するのは大間違いである。真に教育効果があり、教育によって恩恵を受けた者ならば学びを継続するはずである。それが、合格した途端、その学びを止めてしまうような学びは所詮、ニセモノだったことの証しであろう。どうする、日本(竹内)。
効果は問わず、日本はとにかくやっていれさえすればイイ社会。そう、私には映る。例えば、電車。海外の電車は、アナウンスもろくになくドアが締り、走り出す。慣れないと怖い。逆に日本の電車のアナウンスは外国人には騒がしく、お節介に聞こえるそうである。とりあえず無難にアナウンスしておけば由とする親切心にも取れるが、撒き餌のように撒き、責任を回避する姿勢にとれなくもない。
一方、日本社会では電車のアナウンスの賑やかさとは裏腹に、ロクな説明もなく動き出す乗り物(シキタリとも言える)に乗り遅れないようにしないと生きていけない社会のように、私の目には映る。そこで議論が起こらないのは、民族的に均質性の高い社会構成に加え、議論しない空気に馴染んでしまったのだろうか。いまさらながら葬った問題を掘り起こすなど野暮だし、持っての他なのだろう。

↑Cause-Effect関係を示唆するドミノ
❏学校教育は教育効果を検証してきていない
例えば、学校がそうである。小学校までは概して面倒見が良い。しかし、中学校になると突如として様子が様変わりし、定期試験を節目にして学校は回っている。そしてルール通りに予定をこなさないと大変なことになる・・らしい。高校の必修科目の未履修問題では、責任を感じた校長が複数、自殺している。現実的に「履修した」イコール「習得した」ではないのだから、極論すれば教科書の目次を読み上げたのでも構わないのだろう。形骸化していることがわかる。
行うべきだった教育効果の検証を「入試の合否判定」で済ませ頬かむりしてしまったのが実態だろう。そのために「入試」が目を欺くために都合が良かったし、「受験」が終われば思考停止するメンタリティの軽さも日本に特有のまやかしだ。どう考えても、「合否判定イコール教育成果」であろうはずがない。だから日本では、教育は本当の意味では成熟発達してこなかった。ただ、真面目な国民性のために不備がカモフラージュされていて、目立つこともなかったのだろう。
❏生徒を能力をブーストさせることは可能だった
なぜ、私がこの落とし穴に気づいたかと言うと、従来型入試とは別に僅かな指導により生徒自身が火が着いたようにブーストする姿を見せられたからだ。つまり合否判定とは別に、能力がアップしていくことを生徒も教員も体感している。これをどう説明すれば良いのか?
無論、生徒がブーストすれば、その能力向上が反映する試験とマッチングしていたら合格するに違いない。しかし、逆の場合は、どうなのだろうか? つまり真の能力は伸びていないのだが、受験にパスしたような場合である。この場合、受験に成功しても、真の能力は向上していないとしたら合格したら学びを止めてしまう可能性が高いだろう。こう仮定すると、これまで大学生の能力が大学入学時が最大ピークであり、大学がレジャーランドだと揶揄されてきた傾向と見事に符合する気がする。つまり見掛けほど、受験勉強も大学入学も活きていない可能性があった。
❏なぜ日本社会に狡賢い上位層が蔓延してしまったのか?
曰く「勝てば官軍」とか「やった者勝ち」とか、このような風潮が社会の上位層を占めてしまった印象がある。これは、学校教育が健全に機能して来なかったことと関係あるような気がする。
今一度、まとめておきたい。日本の学校教育は、その教育効果を検証すべき活動を「入試」で代用させてきてしまった。その結果、学校教育は本来の効果を引き出せなかったばかりか、間違った誤動作させた結果、その矛盾を無意識であれ容認できる狡賢い人間は生き残り、容認できない真っ当な人間が排除されてきたように私は感じている。
再度、指摘したい。学校教育の効果を「入試の合否判定」で代用するのは大間違いである。真に教育効果があり、教育によって恩恵を受けた者ならば学びを継続するはずである。それが、合格した途端、その学びを止めてしまうような学びは所詮、ニセモノだったことの証しであろう。どうする、日本(竹内)。