❏コンピュータ制御で下水処理場は動くか?
今からちょうど30年前、私は東京都板橋区にある新河岸処理場という下水道局の下水処理場に勤務となった。そこにはある大手電機メーカが入り込んでいて、現場のリアクターにDO、MLSS、SVなど運転指標を連続モニターする計測器(センサー)から信号を取り出し、中央制御室へ送り、送風量、汚泥引き抜き量などの制御系にフィードバックさせ、必要に応じてDO値、MLSS濃度が一定に制御できる運転モード(エキスパート・システム)の導入が試みられていた。果たして、その成果はどうだっただろうか?


↑新河岸処理場(水再生センター)全景

結果的に失敗である。なぜか? 一定に制御することがナンセンスだからなのだ。一定制御システムが効果あるのは、発酵タンクのように原材料が一定で、微生物も単一種を植えつける「単純系」ならば有効である。また、浄水場の凝集沈殿(無機的な化学反応)のように濁り物質の量と当量関係で薬剤(凝集剤)を注入するのに一定制御システムは使える。しかし、下水処理場のようにリアクター内に自然発生した複合微生物が生息し、下水のように時々刻々と水量も濃度も大きく変わる振れ幅のある系では一定に制御することはナンセンスなのである。

この振れ幅の大きさが、介在する微生物の多様性を形成し、この多様性が振れ幅のある水質に柔軟に対応できるカラクリと符合する。これは現場にいて、微生物集団と相対している者なら当然、理解しているのだが、物理化学系の技術者も電気機械系の技術者も、また机上の論理しか知らない事務方も皆、正しい判断ができないのである。

心して欲しいことは、我々、生物の特性を知る者は、物理化学系の反応や電気機械系の制御の原理を理解できる。しかし、向こうはコチラの生物系の変動原理など無頓着だから分からない。まるで公平ではないのだが、それも理解するセンスに乏しく人生の半分も知らないとも言える。

❏一定制御すると生物集団はどうなるのか?
答えは簡単である。刺激がないからダレてしまうのだ。生き物の力を最大級に引き出そうとしたなら、一定制御のような微温湯の環境に晒していたらダメなのである。むしろ酸素供給量を故意に上げ下げして条件を急に振ってやって、潜在的な能力を引き出してやらなければ手抜きを決め込んでしまうのだ。つまり生物群集は環境の変化に追随することで、常に安定化する方向を向いてしまう。そのスタビライザーを故意に壊すようなイベントを仕掛けてやることが欠かせない(これで一定制御の愚かさが知れるだろう)。

ちなみに降雨による増水や希釈は、ダレた生物集団にとって目覚めさせる「喝」になる。これは経験的に真実である。よく雨で増水した時に汚泥を不法に河川に流しているのでは・・などと大学関係者が疑っていた時期があったが、実務現場も生き物の生態も知らない「学びなき者」の戯言なのだ。

下水の濃度が雨で薄まっただけでもダレた生物集団は、驚いてハッとする。セントポーリアの鉢植えの水を切らすと子孫を残すべく植物は慌てて花をつける。このような制御は、一定の水やりをしていたら不可能なのだ。稲作の「SRI農法」も同様。水田の水位を成長期に下げることで稲の根張りを深くさせ、暴風雨や病害虫に抵抗性を持たせるだけでなく分節を促すことで収量も倍増させる。

この辺の技となると単純な機械的な頭脳では、もはや太刀打ち行かないことが解るであろう。

❏本来、人間が相手の「教育」も然り
私の英国時代の恩師、David Nedwell名誉教授の目立たないが、私が興味深く感じている研究論文がある。連続培養系で温度など条件を一定で運転し続けた結果、そこの微生物集団が単一種(厳密にはAPI-20簡易同定システムのコード・パターンの結果)になってしまう・・という内容だ。一方、温度を上下に振ってやったりすると、集団に多様性が維持される。これは先の私が現場で感じた感触を見事にデータ化した成果である(本人もこの研究成果は過小評価していた印象)。

これが学校の教室の生徒集団に対しても言えるだろうと私は考えている。つまり、私の教育論は下水処理や微生物学をもベースとしているのだ。だから同じ教室で同じ教科書や問題集を与えた結果、集団の成長がどうなるのか、知れたものだろう。ダレて当然なのだ。

だからと言って、各生徒に最適の教材や問題を提供することが適しているとも、私は思わない。特に、私は当該生徒には難しいからという理由で平易な内容に落とすことは好ましくないと考えている(文字が書けないとか計算ができないとなれば話は別だが)。私自身は、高校生としてのプライドを保持させたまま成長させる戦略を採っている。難しい内容を易しく教えたからと言って、単純に理解が進むとも限らない。敢えて高度なレベルまで持ち上げたことで全体像が見えてくることだってあるだろう。私は高専でも遠慮なく、大学や大学院の教え方をしていた。学部3年次編入した卒業生から私はこう言われたものだ。「先生の教え方は高専で違和感を感じていました。でも大学へ入ってみて解ったのは、先生の教え方は大学の先生の教え方と同じでした。」

❏教歴も学位も関係ない、誠意と創意でいい
本来、日本の教員は小中高のどこであれ全員、大学で教職課程を修めてきている。だから大学の教授法を知らないはずがない。だから私だけが特殊だとは思わないで欲しい。私の本職は公務員で勤務年数は15年間。高専で教えていたのは5年間(プラス5年間在職可能であったが)。

人はよく「竹内先生は博士号を持っているから・・」などと勘違いされるが、私が博士号を取得したのは、50歳を悠に過ぎてからである。博士号を得る以前から、私は今の私だった(竹内)。