❏ロスが多い日本の組織運営
インターナショナルスクールはもとより海外の小中高、専門学校も大学も、少ない事務職員で運営しているので驚かされることが多い。Essex大学では、学科事務員が何と1名で成り立っていた。しかも、職員は修士課程を無料で受講できる特典があるそうで、仕事時間を終えたら修士課程の学生を兼務していたのだから驚く。それほど無駄を削減して、効率化が進められている。対する日本人は、無駄だと感じていてもそれを削減する英断を下せる人物は滅多にいないと思う。なぜか日本社会には誰が決めたとも分からないルールに縛られる官僚的な思考が蔓延している。恐らく「泣く子と地頭には勝てぬ」以来、日本に根づいてきた悪しき伝統なのかも知れない。

↑英Essex大学の構内、Wivenhoe公園
❏少子化が迫る日本学校の変革く
少子化傾向が学校経営に及ぼす影響が拡大化の一途を辿っている。これは地方の中小・私立大学から深刻な影響が出始めている。それは、個々の大学ごとに様々な動きを注意深く観察していれば、自ずと見えてくる。定員割れを防ぐため、少しでも歩留まりが期待できる受験生の確保に躍起になっている感がある。人が呼び込める美しいキャンパスを維持するだけでも、大学は大変な出費である。高校課程を包含する高専では学科単位で教員が学生を動員し夏草を刈り取ることも教育活動の一環であるとの言い逃れもできようが、それも大学では格好がつかないだろう。もう大学の”殿様商売”が成り立たなくなってきているのだ。それが早晩、高校にも及ぶであろう。
もともと通信制高校は高卒資格を授与する便法であった。無論、認可された高校ならば合法的である。不登校が通信制高校のニーズを生んできたことは間違いない。その不登校の原因も、辿れば本人側に問題ある場合から学校側に問題ある場合まで、一筋縄で語れるものでもない。
❏通信課程開設によるセイフティネット戦略
昨年「ユネスコスクール」の取得状況を調べていて、気づいたことがある。既に認定を受けている通信制高校は、そうザラにないだろうと調べていたら、埼玉県の私学が通信制課程を併設していたことが判明して驚いた。考えたら通学課程で落ちこぼれた生徒を通信課程でフォローアップしていけば、抱えている生徒の絶対数を減らさなくて済むのである。まさに囲い込み策である。
公立高校では例が少ないが、変形として東京の大江戸高校のように既存の高校を数校閉校させて、代替策で単位制にして卒業要件を緩めにした高校を開設している例が出てきている。また、神奈川県には陸上自衛隊高等工科学校の要請もあり、県立の通信制高校が開校している。さらに、NHKやYMCAなど母体の信頼性の高さに加えて、リソースや伝統を備えた通信制高校もある。
❏差別化が今後の通信制高校の生き残り策
「授業」という教授スタイルは、自分の力で歩けなくなる生徒を創り出すマイナス効果の方が大きくなってきたように思える。戦後の復興期や開発途上国のように、どんな形であれ学びを求めている環境であれば機能する。しかし、本もネット情報も溢れている時代には、もはや「授業」を行うべき理由は消失してしまったというのが教壇に立つ者が抱く認識である。これは、決して通信制高校だから見られる傾向ではなく、大学でも「壁に向かって話すようだ」が大学教授たちの共通する実感だと聞いている。
「授業」スタイルが有効なのは、唯一、受験体制に強制されるという特殊な状況下に限る。それゆえに受験が終った途端、彼らは手の平を返すがごとく学びを止めてします。だから昨日の記事で私は「受験勉強」には「停止命令」であるストップ・コードンという暗号司令が組み込まれていると解読したのだ。ここまで解読できて、もう私は通常の受験指導を続ける価値を感じない。無駄になるのを承知で、日本の若者に時間を浪費させたくはない。恨みを抱くだけだからだ。
❏自由の代償に求められる強い意思
授業に限界を感じる教員が全日制でも増えていけば、私はどの高校課程も部分的に通信制高校に似たスタイルを取り入れていくようになるだろうと想像する。私が国立高専の教授の地位を捨て、通信制高校を選んだのは自分自身と生徒の意思決定の自由度が高いことが挙げられる。
教員であっても生徒であっても、最後に問われるのは次の論点である:
「あたなが自由を手に入れたら、その自由の下で何をしたいのか?」
私は大多数の日本人が、残念ながら「(何者かに)決められて行動する方がラクである。」と誤った意識を植え付けられてしまっているように感じている。ハッキリ言って隷属化であるように思える。私自身は自分のことを自分で決めていく人生でありたく思うからこそ、自分の生徒にも同じ感覚を持ち続けて欲しいと願いたい。私は、それを実践しているだけのことである(竹内)。
インターナショナルスクールはもとより海外の小中高、専門学校も大学も、少ない事務職員で運営しているので驚かされることが多い。Essex大学では、学科事務員が何と1名で成り立っていた。しかも、職員は修士課程を無料で受講できる特典があるそうで、仕事時間を終えたら修士課程の学生を兼務していたのだから驚く。それほど無駄を削減して、効率化が進められている。対する日本人は、無駄だと感じていてもそれを削減する英断を下せる人物は滅多にいないと思う。なぜか日本社会には誰が決めたとも分からないルールに縛られる官僚的な思考が蔓延している。恐らく「泣く子と地頭には勝てぬ」以来、日本に根づいてきた悪しき伝統なのかも知れない。

↑英Essex大学の構内、Wivenhoe公園
❏少子化が迫る日本学校の変革く
少子化傾向が学校経営に及ぼす影響が拡大化の一途を辿っている。これは地方の中小・私立大学から深刻な影響が出始めている。それは、個々の大学ごとに様々な動きを注意深く観察していれば、自ずと見えてくる。定員割れを防ぐため、少しでも歩留まりが期待できる受験生の確保に躍起になっている感がある。人が呼び込める美しいキャンパスを維持するだけでも、大学は大変な出費である。高校課程を包含する高専では学科単位で教員が学生を動員し夏草を刈り取ることも教育活動の一環であるとの言い逃れもできようが、それも大学では格好がつかないだろう。もう大学の”殿様商売”が成り立たなくなってきているのだ。それが早晩、高校にも及ぶであろう。
もともと通信制高校は高卒資格を授与する便法であった。無論、認可された高校ならば合法的である。不登校が通信制高校のニーズを生んできたことは間違いない。その不登校の原因も、辿れば本人側に問題ある場合から学校側に問題ある場合まで、一筋縄で語れるものでもない。
❏通信課程開設によるセイフティネット戦略
昨年「ユネスコスクール」の取得状況を調べていて、気づいたことがある。既に認定を受けている通信制高校は、そうザラにないだろうと調べていたら、埼玉県の私学が通信制課程を併設していたことが判明して驚いた。考えたら通学課程で落ちこぼれた生徒を通信課程でフォローアップしていけば、抱えている生徒の絶対数を減らさなくて済むのである。まさに囲い込み策である。
公立高校では例が少ないが、変形として東京の大江戸高校のように既存の高校を数校閉校させて、代替策で単位制にして卒業要件を緩めにした高校を開設している例が出てきている。また、神奈川県には陸上自衛隊高等工科学校の要請もあり、県立の通信制高校が開校している。さらに、NHKやYMCAなど母体の信頼性の高さに加えて、リソースや伝統を備えた通信制高校もある。
❏差別化が今後の通信制高校の生き残り策
「授業」という教授スタイルは、自分の力で歩けなくなる生徒を創り出すマイナス効果の方が大きくなってきたように思える。戦後の復興期や開発途上国のように、どんな形であれ学びを求めている環境であれば機能する。しかし、本もネット情報も溢れている時代には、もはや「授業」を行うべき理由は消失してしまったというのが教壇に立つ者が抱く認識である。これは、決して通信制高校だから見られる傾向ではなく、大学でも「壁に向かって話すようだ」が大学教授たちの共通する実感だと聞いている。
「授業」スタイルが有効なのは、唯一、受験体制に強制されるという特殊な状況下に限る。それゆえに受験が終った途端、彼らは手の平を返すがごとく学びを止めてします。だから昨日の記事で私は「受験勉強」には「停止命令」であるストップ・コードンという暗号司令が組み込まれていると解読したのだ。ここまで解読できて、もう私は通常の受験指導を続ける価値を感じない。無駄になるのを承知で、日本の若者に時間を浪費させたくはない。恨みを抱くだけだからだ。
❏自由の代償に求められる強い意思
授業に限界を感じる教員が全日制でも増えていけば、私はどの高校課程も部分的に通信制高校に似たスタイルを取り入れていくようになるだろうと想像する。私が国立高専の教授の地位を捨て、通信制高校を選んだのは自分自身と生徒の意思決定の自由度が高いことが挙げられる。
教員であっても生徒であっても、最後に問われるのは次の論点である:
「あたなが自由を手に入れたら、その自由の下で何をしたいのか?」
私は大多数の日本人が、残念ながら「(何者かに)決められて行動する方がラクである。」と誤った意識を植え付けられてしまっているように感じている。ハッキリ言って隷属化であるように思える。私自身は自分のことを自分で決めていく人生でありたく思うからこそ、自分の生徒にも同じ感覚を持ち続けて欲しいと願いたい。私は、それを実践しているだけのことである(竹内)。