❏ロジック(論理)を欠く社会の哀しさ
日本の教育にはロジック(論理)がない。当然であろう。母語の日本語にロジックがないから、日本社会にもロジックがないのだ。日本の学校が教える英語という「教科」も本来の「英語」とは程遠い。さんざん英文和訳させてきたのは究極、英語を日本語に直すことで英語の代わりに、日本語を学習をしていただけのこと。そんな英語学習の仕方で、必要な英語力が身についた事例があったら是非、知りたいと思う。

いかに日本人に論理的な思考力が欠落しているのかを缶飲料の例を示してご覧に入れたい。この古いスタイルを知らない世代には、醤油差しの構造を思い浮かべてもらっても結構である:


     ↑2穴缶の「教育モデル」

プル・トップ(easy open end)型の缶飲料が開発される以前、缶の上部に手で付属の穴開け部品で一対の穴を空ける必要がある。穴を2箇所に開けることによって片方から飲料が流れ出て、他方から出た液体の容積分の空気が缶の中へ入り中身が置換される。穴が一つだと液体が連続して流れ出てこないので、飲料を飲むことができない。日本の学校はinputが過剰。すなわち"糞詰まり"の状態にある。

❏アウトプットして初めて躍動し出す
ここでは「教育モデル」として私は具体例を採りあげてみた。今までの学校教育は片方の穴から知識を強制的に「教え込む」だけだった。だから外から生徒の中に入っていく道理すらない。母語に「ロジック」を欠くというのは、これほどまでに哀しいことなのだ。日本人は正しく英語を学んできていないから、英語話者と自分たちとでは頭の中がまるで違っていることも気づけない。言語距離が最大限まで離れている日本語と英語の描ける世界の落差を知っていたら当然、気づくべき内容である。気づけないことは、「本来の英語」を教わってきてないことの証拠である。その挙句、重要な論点の気づきにまで至らない。

私がスーパーサイエンスコースで、生徒らに探究活動や創作活動を推し進めてきたのは、個人的な道楽からではない。それで目立って、格好つけるためのスタンド・プレイからでもない。 この「教育モデル」で「成果」をアウトプットして出す「片方の穴」を開けてやることが、次の新たな「学び」の動機となる「もう一方の穴」を持つことになるからなのだ。こうするより他にないからだ。こうして情報や経験が学習者の全身を貫く躍動感を生む原動力となる。初めて「生きるための知恵」、すなわち「血肉」となるのだ。これこそ、「真実の学び」である。だから「探究」や「創作」に向けば力がつく。これが「教育デザイン」の極意である。

❏次世代に恥ずべき学校では未来はない
日本の失われた20-30年間を、後世の者はそう記述するであろう。大学人は自分のやりたい研究が関心事だった。高校教員も与えられた固定的な役割に殉じて役目を果たしてきたと考えてきた。その狭間で、どれだけの次世代人材の才能の芽を伸ばし損ねたことだろうか? 前途ある若者を意気消沈させただけに留まらず、殺めてしまったかも知れないのだ。そして社会に放ち、再生産をしてきた。特に日本の英語教育は「日本人による、日本人のための英語」に終始してきた。今に至るまで日本で英語教育改革は達成していない。世界には、English as a Foreign Language (EFL) という概念があるのにも拘わらずである。世代を跨いで紡いでいく、悠久の時の流れに身を置くことをイメージできたなら小さなエゴなど到底、恥ずかしくて持ち出せないはずである(竹内)。