❏「教育論議をしたい」と提案した末
私の問いを良く見て欲しい。「教育が論議され尽くされたのか?」ではない。率直に言えば「一度足りとも教育が論議されたことがあるのだろうか?」それほど教育現場で、”教育論議”を聞くことはない。問われることもない。教育論議の「出口」どころか「入り口」にすら一歩も踏み込んでいない。今の学校でも前の学校でも、私は「教育論議をしたい」と要望してきた。
前の学校で一度だけ実現した。後にも先にも、これ1回切りだった。私が管理職へ直訴した結果である。黙っていたら、この国では永遠に起こらないことであろう。全教員60名を3グループに分け、順番に意見を述べた。私は「自分が中学生時代に科学部に属し、自由研究が好きだったので、先生方から"博士"とか"教授"とアダ名で呼ばれていた。」という逸話を紹介し、「随分と長く時間がかかったけれども50歳を過ぎてから子どもの頃の夢が実現して嬉しい。」と締めくくった。しかし、私が喜々として話したように喜びを語った教員は、誰一人として(少なくともグループ内には、恐らく他の部屋のグループでも出なかったのだろう)意見らしい意見は出なかった。論題に対して総括されることもなきまま、締めくくられたのだった。
❏情けない回答のオンパレード
では、どういう意見が出たのか、聞きたいだろうか? 紹介するのも憚れるが、事実なのだからありのまま伝えよう。一人の教員の口を突いて出てきた言葉は「もっと若い頃、男女交際をしておくべきだった。」で始まり、続々と「私も・・」、「私も・・」だったのだ。教授・准教授と名誉ある職位にいて、 この有様。これが教育現場で"教育論議"が出ないことの一因なのだろう。フタを開けてみたら中身がないのが実態で、あったのは大学の「受験勉強」の残骸だった。
情けなくないだろうか? パンドラの箱をひっくり返したように感じた。受験勉強で勝ち残った者が、成績に応じ大学へ進学し、大学院へ進み、博士号を取得し、高等教育機関の教員として採用された。 ただ、それだけのことだ。教員の全員が全員、同じでないと思うが、この学校では同じだった。私は成績で進学したのではなく、やりたい学問のために必要だから進学しただけのことだったのだ。公務員になったのもラクしたくてではなく、信念に基いた行動をしてクビにされないからであった。博士号を取得したのも偉そうにするためではなく、何か正当であるかを社会に対して宣言できる立場であり、責任が行使できるから欲しただけのことである。

↑「象牙の塔」(The University, Leeds, UK)
❏魂を身売りした先にある闇の世界
私の母が亡くなる前、こんな記憶を私に言い残してくれた。母がまだ5歳くらいの頃、足をくじいて歩けなかった子どもに対し、親戚の者がこう告げた。「トモコや、このお金あげるから歩いでごらん」母は、続けて「私、あの時、歩いちゃったんだよね」と哀しげに呟いた。人間の尊厳を貶める行為で、「魂の殺人」だ。
ここで、「お金」を「成績」や「合格」に代えても、私は大差ないと思っている。こうして学校は魂の身売り策を推進させてきた。だから、虐めとか自殺が頻発することも不可思議ではない。逆に、私から問いたい。教員は「好きで、好きで、好きで、好きで堪らない学問を選んで、教えてきたのか?」そして「伝えたくて、伝えたくて、伝えたくて、伝えたくて仕方がない学びを次の世代へ繋ごうとしてきたのか?」と。そうでないなら教員として失格であり、即ち有害である。好きでない者が語る話など、誰が聞こうか? 伝える熱意もない者の気持ちなど、誰が継ごうか? そんな誠意も効力もない存在が、どう人を導けるのだろうか?
❏ドラキュラ伯爵の蔓延をどう阻止するか
ドラキュラの毒牙にかかった者は次々とドラキュラとなって次々と伝染していく。そして最後は全ての人がドラキュラ一族に仲間入りしてしまう。まだ、同化していない者は逃げ惑う。一度、お金や成績に動かされてしまった者は、まだ動かされてない者を見て、舌打ちするに違いない。それほど人間の魂は、汚れてしまうことは簡単であり、抵抗するのは大変である。そして、身売りしてしまった人間は、身売りしてない人間を見て、果たして喜べるだろうか? 私が昨日のブログ記事で、「下克上」地獄図会というタイトルを付した理由はここにある(竹内)。
追記:生徒と交代の予定が、本人は懸賞応募作品の仕上げに専念すべく私が今週いっぱい(週末まで)担当することになりました。しばしのお付き合いを、お願いします。
私の問いを良く見て欲しい。「教育が論議され尽くされたのか?」ではない。率直に言えば「一度足りとも教育が論議されたことがあるのだろうか?」それほど教育現場で、”教育論議”を聞くことはない。問われることもない。教育論議の「出口」どころか「入り口」にすら一歩も踏み込んでいない。今の学校でも前の学校でも、私は「教育論議をしたい」と要望してきた。
前の学校で一度だけ実現した。後にも先にも、これ1回切りだった。私が管理職へ直訴した結果である。黙っていたら、この国では永遠に起こらないことであろう。全教員60名を3グループに分け、順番に意見を述べた。私は「自分が中学生時代に科学部に属し、自由研究が好きだったので、先生方から"博士"とか"教授"とアダ名で呼ばれていた。」という逸話を紹介し、「随分と長く時間がかかったけれども50歳を過ぎてから子どもの頃の夢が実現して嬉しい。」と締めくくった。しかし、私が喜々として話したように喜びを語った教員は、誰一人として(少なくともグループ内には、恐らく他の部屋のグループでも出なかったのだろう)意見らしい意見は出なかった。論題に対して総括されることもなきまま、締めくくられたのだった。
❏情けない回答のオンパレード
では、どういう意見が出たのか、聞きたいだろうか? 紹介するのも憚れるが、事実なのだからありのまま伝えよう。一人の教員の口を突いて出てきた言葉は「もっと若い頃、男女交際をしておくべきだった。」で始まり、続々と「私も・・」、「私も・・」だったのだ。教授・准教授と名誉ある職位にいて、 この有様。これが教育現場で"教育論議"が出ないことの一因なのだろう。フタを開けてみたら中身がないのが実態で、あったのは大学の「受験勉強」の残骸だった。
情けなくないだろうか? パンドラの箱をひっくり返したように感じた。受験勉強で勝ち残った者が、成績に応じ大学へ進学し、大学院へ進み、博士号を取得し、高等教育機関の教員として採用された。 ただ、それだけのことだ。教員の全員が全員、同じでないと思うが、この学校では同じだった。私は成績で進学したのではなく、やりたい学問のために必要だから進学しただけのことだったのだ。公務員になったのもラクしたくてではなく、信念に基いた行動をしてクビにされないからであった。博士号を取得したのも偉そうにするためではなく、何か正当であるかを社会に対して宣言できる立場であり、責任が行使できるから欲しただけのことである。

↑「象牙の塔」(The University, Leeds, UK)
❏魂を身売りした先にある闇の世界
私の母が亡くなる前、こんな記憶を私に言い残してくれた。母がまだ5歳くらいの頃、足をくじいて歩けなかった子どもに対し、親戚の者がこう告げた。「トモコや、このお金あげるから歩いでごらん」母は、続けて「私、あの時、歩いちゃったんだよね」と哀しげに呟いた。人間の尊厳を貶める行為で、「魂の殺人」だ。
ここで、「お金」を「成績」や「合格」に代えても、私は大差ないと思っている。こうして学校は魂の身売り策を推進させてきた。だから、虐めとか自殺が頻発することも不可思議ではない。逆に、私から問いたい。教員は「好きで、好きで、好きで、好きで堪らない学問を選んで、教えてきたのか?」そして「伝えたくて、伝えたくて、伝えたくて、伝えたくて仕方がない学びを次の世代へ繋ごうとしてきたのか?」と。そうでないなら教員として失格であり、即ち有害である。好きでない者が語る話など、誰が聞こうか? 伝える熱意もない者の気持ちなど、誰が継ごうか? そんな誠意も効力もない存在が、どう人を導けるのだろうか?
❏ドラキュラ伯爵の蔓延をどう阻止するか
ドラキュラの毒牙にかかった者は次々とドラキュラとなって次々と伝染していく。そして最後は全ての人がドラキュラ一族に仲間入りしてしまう。まだ、同化していない者は逃げ惑う。一度、お金や成績に動かされてしまった者は、まだ動かされてない者を見て、舌打ちするに違いない。それほど人間の魂は、汚れてしまうことは簡単であり、抵抗するのは大変である。そして、身売りしてしまった人間は、身売りしてない人間を見て、果たして喜べるだろうか? 私が昨日のブログ記事で、「下克上」地獄図会というタイトルを付した理由はここにある(竹内)。
追記:生徒と交代の予定が、本人は懸賞応募作品の仕上げに専念すべく私が今週いっぱい(週末まで)担当することになりました。しばしのお付き合いを、お願いします。