❏地学オリンピックの成果を目にして
いえ学校教育の流れが変わろうと、本物のトップは変わりません。恐らくはボトムもでしょう。 昨晩、地学オリンピックで日本の高校生4名、全員がメダルに届いたとの知らせが目に入りました。確か学校名が記載されていて、「灘」とか「筑駒」とかの字が目に留まりました。問題は同一の学校内においてすら、 当該生徒の「立ち位置」が入れ替わる可能性も考えられることです。

❏日本の通信簿と海外の通信簿の相違
私は国立高専で教鞭を執っていて、いくつも実験をしてきました。出題方式を変えれば得点は入れ替わります。試験の結果は、ある一つの立体の一断面を見ているに過ぎません。ホンキのホンキで人間が人間を評価しようものなら、多面的に評価しなければなりません。それでも模型に過ぎません。後は文章で記述するしかないのは当然過ぎることです。ですから、日本の通信簿は「数字」で、海外へ持ち出す場合も「ABC」です。これに対し、海外の通信簿は各教科の先生が文章で記述するのです。海外の事例とは、国際バカロレア(IB)校と英国の現地校(Comprehensive school/college)です。

❏天才は忘れた頃にやって来る
高専に時々、天才かと思われる学生が混じってきました。退屈な授業ばかりだと、尖った人材は腐って行きます。そんな天才は部屋に籠って、めったに登校してきません。刺激が足りなくて仕方ないのです。かつて数学オリンピックの覇者であった灘や筑駒の生徒の言葉として「東大入試は、朝起きで歯磨きをする程度の手応えだった」という感想が伝わりますが、あながち誇張だと思えません。

天外伺朗氏の『人材は「不良社員」からさがせ-奇跡を生む「燃える集団」の秘密-』に書かれているように、そういう教室では「良い子」が闊歩し、「人材」が「不良」に化けます。そのような体制が長く続くと、社会にも暗い影を落としていくものです。本来の才能溢れた人材が社会の片隅に追いやられる顛末となることでしょう。こうして、昔からの「お天道様に恥ずかしくない生き方」をする日本の美徳も失われていったのだと思います。

❏ずる賢さを助長する入学試験
日本人は、全てを捨てて裸一貫になって一斉に徒競走することが「公平」である、とでも大きな勘違いをしてきたようです。 「ラットレース」と呼びます。 日本人には「機械的な平等」という感覚しかありません。「歪んだ」平等ならば、「悪平等」と呼びます。その種の刷り込みを受けた人には、入試は1点刻みで合否を判定することが正しいと固く信じています。採点時にミスが生じない入試はないだろうと思います。マークシートを用いても、そこに人が介在する限り人的なミスは起こり得ます。何重ものチェック・ポイントを素通りすることがあるのです。かつて私自身が大学入試での判定ミスの被害者でしたので、ハッキリと証言できます。実際に人を見て判断していたら、果たして単純な機械的ミスなど起こり得るのでしょうか? 

❏人が選ぶ英国 vs 数字が選ぶ日本
第一、大学人は入試を厄介な雑用と捉えているのが偽らざるホンネとみます。まして大学教授が従来型の入学試験に熱を入れていたとは到底、思えません。彼らは自分の専門論文を発表し、業績を積むことが最大級の役割だからです。教授陣を選考への参画へ導く自然な道が、口頭試問で志願者と触れさせることでしょう。 英国では当然、点数順ではなく、その大学に相応しいと思う志願者を教授が判断して合否を判定するシステムであることが、東大からオックスフォード大学へ転出した苅谷剛彦氏により日本へ「伝来」しました。 英国の「個人主義」は日本人のメンタリティーでは理解を超える感覚ですが、1人の教員が大学の代表であり、さらに1人の入国管理官が一国の代表なのです。これこそが、人が人を選ぶ国と、点数に人を選ばせる国柄との、余りにも大きな相違です。ただし、その実現には前提がありました。英国では大学間に序列が生じないように配慮し、日本では序列化を是認しています。ですから、社会の成り立ちを考えず、形式だけを真似しても、どうなるものでもありません。

❏トップとボトムを除いた中間層で「下克上」が起こる
下は、私が描いた「才能」と「熱意」の両軸に4つの象現を描いてみた図です。学習者が学校とマッチして本来、持てる能力が発揮されたら、これは最高の姿です(第I象限)。本来、教育機関とは、「学習者の能力が最大限に発揮できる」ように務めるのが責務だと思います。

   ↑才能と熱意を二軸にした図式

逆に、教員が工夫を凝らしても泣かず飛ばすの学習者もいます(第Ⅲ象限)。これは、さまざまな理由が履歴として考えられましょう。生い立ち、家庭環境、前籍校でのトラウマなど。しかし、目覚める機会を与えても応答ない場合はやむなく、高卒資格取得がターゲットとなります。

問題は中間層です。これから始まる教育改革で、ここに変化が起こると私は見ています。それは日本の社会にとっては好ましい展開になるだろうと思っています。要は、従来の受験勉強の勝者(第Ⅳ象限)が沈み、それを敬遠または回避してきた敗者(第Ⅱ象限)が浮かび上がる可能性が予想されます。実は私自身が高専の教授を辞し、新規発足した通信制高校へ着任したのも、その「落ち穂拾い」が狙いでした。思わぬ天才と出会える可能性があり、埋もれた才能の発掘が私のミッションです。そのために、私は一度は移民した英国から、2006年に教育に関わりたいと心に決め、日本へ帰還しました。同年、有馬朗人氏が主宰する科学オリンピックを目指す「創造性の育成塾」が発足したのです。
※想像性の育成塾
俳人でもある有馬氏は、今は科学だけでなく俳諧も守備範囲に広げているようです。真の科学は、研究者としての持つべき「感性」を損ねるようでは、それは偽物だからだろうと、私は解釈しています。

❏学校教育から社会活動までシームレスに
高専教員時代、私は出口(就活)対策のため在京企業の人事担当者らと懇談しましたが、私から単刀直入に「狐と狸の化かし合いは止めましょう。」と提案しました。実際、徒労だからです。乗らない企業もありましたが早晩、浮き沈みの憂き目に遭うだろうと対象外として外しました。要は「選ぶ-選ばれる」関係は「あいこ」なのです。「選ばれる側も相手を「選んでいる」のです。これは、大学入試も採用試験も同様です。相手との「格が合う」から「合格」なのであって、その意味で婚姻に至る前段の「縁談」とも似ます。

私が描いた図を、"式"で示したのが稲盛和夫氏のサイトにありました。「人生・仕事の結果=考え方✕熱意✕能力」という彼の体験的な人生を解く成功の方程式です。
※稲盛和夫 OFFCIAL SITE
注)このサイトの秀逸さは、日本では珍しく英語サイト、さらに中国語サイトまで飛べることです。素晴らしい。一つのサイトの見本として行きたく思います。

私は高専時代に呉東ロータリークラブの幹部と交った経験からか、経営者の方々の抱く考え方が知らず知らず伝わってきました。それが、私に先手先手へと繰り出していける力の拠り所となりましたようです。感謝しています。どうもありがとうございました(竹内)。

追記:明日から、また生徒(3年生・暮田佳薫さん)へバトンを返します。彼女は昨日、三作目の小説を手書きで書き終え、今日はPCに入力して推敲作業に移っています。根比べでは負ける気がない私よりも、さらに高度な集中力を誇るので舌を巻いています。周囲の期待を裏切らない、そんな素質を育みました。ここ6ヶ月間の急成長です。若人、恐るべしです!