❏受験という「鉄下駄」を履かされた日本人
本ブログで告げてきたように、日本の学校教育が大きく変わろうとしている。激震を伴うだろうが、国家が破綻しないためには、たとえ大手術になったとしてもやむを得ない。遅きに失した。よくぞ教科書を読み上げ、答えを暗記する「カンニング紛い」の教育で成績をつけてきたものと感心する。勉強すればするほど頭が鈍化するだけなのに、まだ盲信している人たちもいる。日本経済が久しく停滞し、国力が低下していったのも、画一化した教育政策に起因することは欧米から見れば、明らかであった。鉄下駄を履いて、よく日本は踏ん張ってきたものだと讃えねばならない。


↑『アエラ』2015年3月16号特集号の表紙

❏ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
かつて書籍は鉛の活字を植字工が組んでいた。今はその仕事は跡形もない。和文タイピストもいた。だが、もういない。必要かつ難度の高い仕事だったはずであるが、1980年後半のマッキントッシュの登場により駆逐された。今では活版印刷は、レコード盤のごときレトロ趣味以外には、出番もない。

停滞している間、学校と受験産業は並列し、2倍の時間と経費が投じることを余儀なくされてきた。それでも二重投資した結果、マネーフローで下駄を履かせる「目先の」経済効果はあったのだろうが、誰も止めなかった 30年もの間に世代交代し、受験指導要員の教員が再生産されてしまった。これから進路を元へ戻すのも辛いだろうが、日本丸が沈没してしまうよりはマシだろう。

❏英語科教員を再生産する「英語」の授業
一度でも海外で英語の授業を受ければ、知れることである。日本の「英語」の授業は、「日本人の英語科教員」が「日本人の生徒」を相手に日本語で英語を教える仕様で デザインされている。 これが、間違いの元であった。私は高専教授として英語科教員の採用選考に立ち会ったことがあるが、 英米文学の博士号取得者が博士論文を日本語で書いていることを知って驚いた。元が英語で書かれた文学を日本語で論じていたのである。それなら理系の私の方が余程、実用レベルで英語を道具として使っていたことになる。日本の英語教育は畢竟、日本人全員を英語科教員に仕立てあげるような設計図にデザインされていたと言っても過言ではない。この愚民化政策によって日本人は国際的な交渉力を喪失し、どれだけ国益を損ねれきたのか計り知れないであろう。それでいて、文系か理系かを問わず英語力は等しく求められる。だが私が宣言する。英語ができないのは学習者の責任ではない。初代文部省英語顧問ハロルド・パーマー博士が当時、指摘していたのだ。日本人は英文を読むことも教わっていないのだ、と。あれから1世紀が経つ。日本人は国民が共通して英語を苦手とする、その原因にそろそろ気づくべきである。

❏次世代人材育成事業がスタート
科学技術振興機構(JST)がを国際科学技術コンテストとして体系化し、高校生への支援体制が整った:
次世代人材育成事業
キャッチフレーズが、「チャレンジの先になりたい自分がいる。得意分野で頑張るあなたを応援します」であり、これは大学受験での特典制度とリンクしている。併せて本日、国立大学の推薦枠が倍増されることが報じられた。日本丸の方向転換の準備も着々と進められているのが判る。ネットを検索してみると、高校生を対象とするコンテストやコンクールの件数が増えていることに驚く。まだ玉石混淆の感は否めないが、文芸・小論文・アート/デザイン系を問わず、 加えて学協会や塾、出版社、コンサル系企業も参入して、数値(偏差値)に代わって才能ある高校生に「一生を生き抜き、世界へと飛び出す」自信を与え実績を示すエビデンスとする、そんな新しい学校教育の土俵が、今ようやく整いつつあるのだ(竹内)。

追記:
連休中(シルバーウィーク)につき、生徒の暮田に代わり、竹内がブログ記事の執筆を担当しています。