❏学校を自由選択できる社会か?
日頃、モノゴトを「合理的に決める」とか言いながら、入念に「事前調査して決める」とか言いながら学校の選択は、その実、かなり運任せであり、「博打」と何ら変わらないと私は思う。
まず一つの学校へ入学した以上、ふつう入学したら卒業するのが一般的である。女性に言わせたら「妊娠したら産むしかない」の事情に近い。もっとも女性のからだと仕組みと学校の仕組みは同じあろうはずもないが、日本の共同体では半ば、無言の圧力を受けている実感がある。例えば度々、学校を変わると履歴書に傷がつく、あるいは辛抱強くない人間だとマイナスに見なされるとの懸念が左右する。その社会風土では、丸く収まっているように見えて、その実、我慢して耐えている結果、家庭では仮面夫婦が、学校では仮面学生が潜伏する展開となっていくのであろう。その中で学校も教員も、概ね存続してしまう構図である。
❏画一化は質保証に繋がらない
しかし、合理性を尊ぶ西欧では、特にドイツでは国家が個人に合う学校がみつかるまで転校するも由とする習慣があると聞く。これは各学校が特徴を打ち出す工夫をするから意義を持ち、日本のようにどこも等しく画一的な教育を目指すのなら移っても意味が乏しくなるだろう。おそらく日本語が持つ曖昧さが招いている盲点なのだろうが、言語の特性に由来する考え違いが日本では少なくない。西欧のメンタリティでは、「画一化」が「質保証」に転じる道理などはない。事実は真逆で、「多様化」が個人にとっての「適合するまで探せる」ことで「質保証」が実現するのである。
英国の大学(一つを除き全て国立)では、大学間格差が生じないよう相互に教育や研究をモニターし合う仕組みを内蔵しているが、これは画一化とは異なる。むしろ教育・研究の質保証のためである。無論、外部機関による定期的な教育と研究実績を調べるアセスメントも実施され、その都度、評価が下されている。一定の固定的な評価(それは一歩、間違えれば偏見)は流布していない。無論、オックス・ブリッジ校のように創立年が古い場合、その歴史的価値は変わらない。しかし、19世紀創立の大学が創立50年程度の大学に評価順位で逆転される場合も多々ある(通信制の日本の放送大学のモデルになったOpen Universityの評価も、並みいる通学制大学より上位につくことが普通である)。
❏他校と自校の生徒を比べる機会
前任校では、部活(バスケやインターアクトクラブ、国際交流室の行事など)を通じて多少は、他校の生徒と自校の生徒を見比べる機会はあった。しかし、大阪校へ来てからは昨年、府高校生物研究会が主催する生徒研究発表会が唯一で、他校の生徒と交流する機会は乏しい体制にあった(自由意思で参加したSSH指定校の研究発表会や学会発表の高校生部門を除く)。実は今日、近隣のSSH指定校、府立園芸高校で技術研修・交流会が催され、大阪校の生徒2名を引率する機会に恵まれた。最後列だったので、私は講義中の大阪校の生徒と他校の生徒の様子を見比べることができた。同じことは引率した生徒2人も私と同じ視点を持てたはずであるが、待てども生徒2人が自ら自覚するに至る展開は実現しなかった。だから私は次のような弁を添えて自覚を促した。
❏「キミらと他の生徒との違いが分かるかい?」
恐らくハッとしたであろう。ここに気づけないほど自分中心の視座しか持たない。昨日のブログに書いた内容がヒントになる。大阪校の生徒は概して「自己中心的」である。既存の学校から避難してきた生徒が多いからだ。そのこと自体を私は、非難する気はない。むしろ「逃げてきて正解だよ。自分を守って良かったね。偉いよ。」と私は告げてあげたい。
しかし・・だ。自己を客観視する能力を欠いている生徒が余りにも多い。まるでバイクに乗っているような状態なのだ。だから機動力は優れる。飲み込みも早く、作業も手早い。しかし、思慮深さに欠ける。学問こそが、人をして思慮深くさせるからだ。かつて世間で「学がある」とか「学がない」とか言われたのは「学歴」の優劣を指したのではなく「思慮」の有無だったはずだ。その結果、作業はできても、野放しなら品格にはならない。アルバイトは務まっても責任ある大人にはなれない。そういう未来図を私は感じた。それでも、確かに生きてはいけるけれども・・。

2人は実験の土台となる原理の説明から実験操作に至るまで、手に嵌めているゴム手袋を終始、手づくろいしていた。他校の生徒は皆、ジッと動かずに食い入るように話を聞いている。この違いは、どこから来るか? 私は視点の差。"第三の目"が開いているか否かの差だと見ている(だが、他人をの目を意識する目とは"似て非なる"モノである)。まず2人は、話し手が高校生が普段なら接触することができない大学の教員であることの意義すら自覚していないだろう。最初に紹介されたから事実としては認知しているはずである。が、その持つ意味を「自分のこと」に絡めて捉えてはいまい。要するに、これが大阪校に来る生徒たちの現状であると、私は見ている。
これは昨年度、私が斡旋して米国ハワイ大学マウイ校の短期語学留学へ挑戦した生徒にも言えるだろう。冒険して行って無事に帰ってきたことに意義は認める。しかし、単に予定通りにこなしたことと、そこから「何かを得た」こととは同じではない。この部分が大阪校へ来る生徒たちには、恐らく共通して足りていないのだ。問題点を発見し、そこを正していくのは目利きの効く教員の務めである。教科書の内容を口移しすることが、教員の本来業務であろうはずがないのだ。世の教員は長年の慣習からか、自らの使命を大きく誤解していると、私はそう思う。
❏漫然と生きている状態からの脱出
世の中には病の縁にいる者もいる、障害に苦しむ人もいる。だから贅沢は求めまい。しかし、仮により良く生きる機会が与えられている幸運に恵まれている者なら、それを活かして欲しいのが私の望みだ。私は、2人の生徒に「他校の生徒たちを見習って、大人しく話を聞きなさい」とか「真面目に見えるように振る舞いなさい」とか説教する気は毛頭ない。そんな嘘つき人間には、なって欲しくない。他人の視線を気にして手鏡を覗き込みながら生きる人間にもなって欲しくない。ただ願わくば、少しだけ自分の殻から抜け出て周囲を見渡して、その中で自分の生き方を見つめることができる大人へと育って欲しいだけのこと。生きていくのは本人なのだから・・(竹内)。
追記:
スーパーサイエンスコースでは、中学や高校で既存の学校教育に馴染めなかった生徒を積極的に受け入れ、個人に応じた学びを創出しながら自力成長できるように日夜、研究に励んでいます。嬉しいことも落胆することも、しばしば。悲喜こもごも・・といったところが率直な感想です。
日頃、モノゴトを「合理的に決める」とか言いながら、入念に「事前調査して決める」とか言いながら学校の選択は、その実、かなり運任せであり、「博打」と何ら変わらないと私は思う。
まず一つの学校へ入学した以上、ふつう入学したら卒業するのが一般的である。女性に言わせたら「妊娠したら産むしかない」の事情に近い。もっとも女性のからだと仕組みと学校の仕組みは同じあろうはずもないが、日本の共同体では半ば、無言の圧力を受けている実感がある。例えば度々、学校を変わると履歴書に傷がつく、あるいは辛抱強くない人間だとマイナスに見なされるとの懸念が左右する。その社会風土では、丸く収まっているように見えて、その実、我慢して耐えている結果、家庭では仮面夫婦が、学校では仮面学生が潜伏する展開となっていくのであろう。その中で学校も教員も、概ね存続してしまう構図である。
❏画一化は質保証に繋がらない
しかし、合理性を尊ぶ西欧では、特にドイツでは国家が個人に合う学校がみつかるまで転校するも由とする習慣があると聞く。これは各学校が特徴を打ち出す工夫をするから意義を持ち、日本のようにどこも等しく画一的な教育を目指すのなら移っても意味が乏しくなるだろう。おそらく日本語が持つ曖昧さが招いている盲点なのだろうが、言語の特性に由来する考え違いが日本では少なくない。西欧のメンタリティでは、「画一化」が「質保証」に転じる道理などはない。事実は真逆で、「多様化」が個人にとっての「適合するまで探せる」ことで「質保証」が実現するのである。
英国の大学(一つを除き全て国立)では、大学間格差が生じないよう相互に教育や研究をモニターし合う仕組みを内蔵しているが、これは画一化とは異なる。むしろ教育・研究の質保証のためである。無論、外部機関による定期的な教育と研究実績を調べるアセスメントも実施され、その都度、評価が下されている。一定の固定的な評価(それは一歩、間違えれば偏見)は流布していない。無論、オックス・ブリッジ校のように創立年が古い場合、その歴史的価値は変わらない。しかし、19世紀創立の大学が創立50年程度の大学に評価順位で逆転される場合も多々ある(通信制の日本の放送大学のモデルになったOpen Universityの評価も、並みいる通学制大学より上位につくことが普通である)。
❏他校と自校の生徒を比べる機会
前任校では、部活(バスケやインターアクトクラブ、国際交流室の行事など)を通じて多少は、他校の生徒と自校の生徒を見比べる機会はあった。しかし、大阪校へ来てからは昨年、府高校生物研究会が主催する生徒研究発表会が唯一で、他校の生徒と交流する機会は乏しい体制にあった(自由意思で参加したSSH指定校の研究発表会や学会発表の高校生部門を除く)。実は今日、近隣のSSH指定校、府立園芸高校で技術研修・交流会が催され、大阪校の生徒2名を引率する機会に恵まれた。最後列だったので、私は講義中の大阪校の生徒と他校の生徒の様子を見比べることができた。同じことは引率した生徒2人も私と同じ視点を持てたはずであるが、待てども生徒2人が自ら自覚するに至る展開は実現しなかった。だから私は次のような弁を添えて自覚を促した。
❏「キミらと他の生徒との違いが分かるかい?」
恐らくハッとしたであろう。ここに気づけないほど自分中心の視座しか持たない。昨日のブログに書いた内容がヒントになる。大阪校の生徒は概して「自己中心的」である。既存の学校から避難してきた生徒が多いからだ。そのこと自体を私は、非難する気はない。むしろ「逃げてきて正解だよ。自分を守って良かったね。偉いよ。」と私は告げてあげたい。
しかし・・だ。自己を客観視する能力を欠いている生徒が余りにも多い。まるでバイクに乗っているような状態なのだ。だから機動力は優れる。飲み込みも早く、作業も手早い。しかし、思慮深さに欠ける。学問こそが、人をして思慮深くさせるからだ。かつて世間で「学がある」とか「学がない」とか言われたのは「学歴」の優劣を指したのではなく「思慮」の有無だったはずだ。その結果、作業はできても、野放しなら品格にはならない。アルバイトは務まっても責任ある大人にはなれない。そういう未来図を私は感じた。それでも、確かに生きてはいけるけれども・・。

2人は実験の土台となる原理の説明から実験操作に至るまで、手に嵌めているゴム手袋を終始、手づくろいしていた。他校の生徒は皆、ジッと動かずに食い入るように話を聞いている。この違いは、どこから来るか? 私は視点の差。"第三の目"が開いているか否かの差だと見ている(だが、他人をの目を意識する目とは"似て非なる"モノである)。まず2人は、話し手が高校生が普段なら接触することができない大学の教員であることの意義すら自覚していないだろう。最初に紹介されたから事実としては認知しているはずである。が、その持つ意味を「自分のこと」に絡めて捉えてはいまい。要するに、これが大阪校に来る生徒たちの現状であると、私は見ている。
これは昨年度、私が斡旋して米国ハワイ大学マウイ校の短期語学留学へ挑戦した生徒にも言えるだろう。冒険して行って無事に帰ってきたことに意義は認める。しかし、単に予定通りにこなしたことと、そこから「何かを得た」こととは同じではない。この部分が大阪校へ来る生徒たちには、恐らく共通して足りていないのだ。問題点を発見し、そこを正していくのは目利きの効く教員の務めである。教科書の内容を口移しすることが、教員の本来業務であろうはずがないのだ。世の教員は長年の慣習からか、自らの使命を大きく誤解していると、私はそう思う。
❏漫然と生きている状態からの脱出
世の中には病の縁にいる者もいる、障害に苦しむ人もいる。だから贅沢は求めまい。しかし、仮により良く生きる機会が与えられている幸運に恵まれている者なら、それを活かして欲しいのが私の望みだ。私は、2人の生徒に「他校の生徒たちを見習って、大人しく話を聞きなさい」とか「真面目に見えるように振る舞いなさい」とか説教する気は毛頭ない。そんな嘘つき人間には、なって欲しくない。他人の視線を気にして手鏡を覗き込みながら生きる人間にもなって欲しくない。ただ願わくば、少しだけ自分の殻から抜け出て周囲を見渡して、その中で自分の生き方を見つめることができる大人へと育って欲しいだけのこと。生きていくのは本人なのだから・・(竹内)。
追記:
スーパーサイエンスコースでは、中学や高校で既存の学校教育に馴染めなかった生徒を積極的に受け入れ、個人に応じた学びを創出しながら自力成長できるように日夜、研究に励んでいます。嬉しいことも落胆することも、しばしば。悲喜こもごも・・といったところが率直な感想です。