❏自然成長をアシストする方向
今回、高校1年生の科学賞へ出展する作品に沿った「論文の書き方」のスタンスについて考えたことを記したい。それは、人間の成長に伴って変化する視点を認知心理学的に考えることに繋がる。小・中学生の理科の自由研究であれば、間違いなく「自分中心」で構わないと思う。「自己中心」というより「児童・生徒が主体」という意味で・・なのだ。例えば、「自宅にあった空気清浄機を学校へ持ち込み、前年度にいた生徒が分離していたカビがあったので、飛散したカビの胞子がどれだけ除去されるかを調べた。」となる。時系列の通りで、内容も間違ってはいない。
大学生や研究者の論文となると、そうは行かない。たとえ同じく「個人」が取り組んだ実験であっても、その実験が過去の類似の研究(先行研究)との間の関連づけ・・そして過去から未来へ連綿と続く、まるで「聖者の行進」のごとく人類の歩みの中に”落とし込む”操作が求められる。
❏学問は尊くも、両刃の刃なり
私は東京都の技術職員の頃、『技術調査年報』という年鑑(大学の「紀要」や「研究報告」相当)に好んで投稿したが、よく同僚に言われた言葉がある。「私たちの書く原稿とあなたの書く原稿の間に違いがあるのは、なぜか?」と。答えは、この視点の差である。つまり自分がある調査や実験を行ってデータ(材料)を得た・・という段階までは「共通」。違いはこの先で生まれる。すなわち、同一の食材でも料理の仕方や手腕によって出来栄えが変わってしまうように、材料が共通でも書き方次第で出来栄えの異なる論文が複数、生まれ得るのだ。
これは、具体的なデータをどこまで一般化(あるいは抽象化)できるか・・という論点である。個々の具体的な結果も、一般化することで他の研究との比較検討ができるようになる。場合によっては、分野の枠を越えて波及することもある。英国のNatureという科学誌の特徴は、ある研究が他分野まで影響を及ぼすか否かに価値判断("distinguished"と評される)を設けている点にある。分野の枠を越えて関心を引き込むためには、データの一般化/抽象化は欠かせない。実験結果は一般化/抽象化されて初めて、利用価値が高まるからである。これが研究者としてのセンスであると言っても過言ではない(この種の議論が日本国内では乏しいが、英語圏には広くある)。
❏旧パラダイムからの脱皮が必要
問題は、小・中と大の狭間にある高校生への指導をどうするか・・である。「学生科学賞」へのスキームを見る限り、高校が「小・中の延長線上に留まっている」ように私には見えた。これでは"旧パラダイム"のままではないか、と高専から降りてきた私の目には映った。高校が中学の”焼き直し”であり、次のステージへ積極的に接続させる意思に欠けると感じられたのだ。
同様な感覚が、英文エッセイコンテストへ応募した際にも、今のグローバル社会に相応しい感触が得られなかった。今や留学せずとも、旅行せずともネットを介してホンモノの英語にいくらでも接触することができる。が、高校レベルでそのような術を教えていないのではないだろうか?日本には日本の教室だけに固有の「学校英語」がある。国際社会では普通に使われている次のような表現、例えば、available, possible, thereby, alongsideなど、日本人は自在に使いこなしていない。しかし、ネットでリアルタイムで流通している英語情報に触れていれば否応なく目にするのだ。冠詞や時制の用法の基本すら理解が行き届いていないのも世界中でバレバレなのだから、英語利権者も"無駄な抵抗"は止めて欲しい。
❏高校時代の成長を消耗させない
成長期にある高校生を、教科書や入試問題という檻の中に閉じ込め、成長する機会を奪うことは国益を著しく損ねる。そろそろ止めておかないと国も傾き、取り返しのつかない事態に陥ることだろう。
この稿の最後に「教育デザイン」の要諦について、自動車の運転免許と高校生の成長と学習指導を絡めて、認知心理学的な見地からの提言をしておきたい。下図は、自動車と運転者の視座との関係を示す。

↑ 自動車のサイズと運転者の位置
二輪車(左)なら、まだ「自己中心」の視点で運転ができなくはない。しかし、乗用車や大型車となると、運転席は全体の一部に限られてくる。もとより公道上を走るには自己中心であっては危険が伴うことは言うまでもない。いきおい自分以外の周囲に対する配慮が必要で、理想的には真上から自分を見下ろすような第三者的な視点を持つことが求められるようになってくる。自分を客観視できる「視座」の獲得であり、成熟した大人の証しとなる。この視座を養うように教育を設計しない限り、納税も選挙も無駄に終わる。
高校入学した頃から二輪車の免許取得が射程に入り、高校を卒業する頃には四輪者の免許取得に手が届くようになるのは、人間の成長に伴い持てる視点も自分中心の状態から他者へ向ける意識が芽生えてくることと根底で繋がっているように感じる。「自然成長」を待つに任せてきたのが従来の学校だったが、私は「自然成長」を促すよう学校教育がアシストする方向へ舵を切るべきだと考えている(竹内)。
今回、高校1年生の科学賞へ出展する作品に沿った「論文の書き方」のスタンスについて考えたことを記したい。それは、人間の成長に伴って変化する視点を認知心理学的に考えることに繋がる。小・中学生の理科の自由研究であれば、間違いなく「自分中心」で構わないと思う。「自己中心」というより「児童・生徒が主体」という意味で・・なのだ。例えば、「自宅にあった空気清浄機を学校へ持ち込み、前年度にいた生徒が分離していたカビがあったので、飛散したカビの胞子がどれだけ除去されるかを調べた。」となる。時系列の通りで、内容も間違ってはいない。
大学生や研究者の論文となると、そうは行かない。たとえ同じく「個人」が取り組んだ実験であっても、その実験が過去の類似の研究(先行研究)との間の関連づけ・・そして過去から未来へ連綿と続く、まるで「聖者の行進」のごとく人類の歩みの中に”落とし込む”操作が求められる。
❏学問は尊くも、両刃の刃なり
私は東京都の技術職員の頃、『技術調査年報』という年鑑(大学の「紀要」や「研究報告」相当)に好んで投稿したが、よく同僚に言われた言葉がある。「私たちの書く原稿とあなたの書く原稿の間に違いがあるのは、なぜか?」と。答えは、この視点の差である。つまり自分がある調査や実験を行ってデータ(材料)を得た・・という段階までは「共通」。違いはこの先で生まれる。すなわち、同一の食材でも料理の仕方や手腕によって出来栄えが変わってしまうように、材料が共通でも書き方次第で出来栄えの異なる論文が複数、生まれ得るのだ。
これは、具体的なデータをどこまで一般化(あるいは抽象化)できるか・・という論点である。個々の具体的な結果も、一般化することで他の研究との比較検討ができるようになる。場合によっては、分野の枠を越えて波及することもある。英国のNatureという科学誌の特徴は、ある研究が他分野まで影響を及ぼすか否かに価値判断("distinguished"と評される)を設けている点にある。分野の枠を越えて関心を引き込むためには、データの一般化/抽象化は欠かせない。実験結果は一般化/抽象化されて初めて、利用価値が高まるからである。これが研究者としてのセンスであると言っても過言ではない(この種の議論が日本国内では乏しいが、英語圏には広くある)。
❏旧パラダイムからの脱皮が必要
問題は、小・中と大の狭間にある高校生への指導をどうするか・・である。「学生科学賞」へのスキームを見る限り、高校が「小・中の延長線上に留まっている」ように私には見えた。これでは"旧パラダイム"のままではないか、と高専から降りてきた私の目には映った。高校が中学の”焼き直し”であり、次のステージへ積極的に接続させる意思に欠けると感じられたのだ。
同様な感覚が、英文エッセイコンテストへ応募した際にも、今のグローバル社会に相応しい感触が得られなかった。今や留学せずとも、旅行せずともネットを介してホンモノの英語にいくらでも接触することができる。が、高校レベルでそのような術を教えていないのではないだろうか?日本には日本の教室だけに固有の「学校英語」がある。国際社会では普通に使われている次のような表現、例えば、available, possible, thereby, alongsideなど、日本人は自在に使いこなしていない。しかし、ネットでリアルタイムで流通している英語情報に触れていれば否応なく目にするのだ。冠詞や時制の用法の基本すら理解が行き届いていないのも世界中でバレバレなのだから、英語利権者も"無駄な抵抗"は止めて欲しい。
❏高校時代の成長を消耗させない
成長期にある高校生を、教科書や入試問題という檻の中に閉じ込め、成長する機会を奪うことは国益を著しく損ねる。そろそろ止めておかないと国も傾き、取り返しのつかない事態に陥ることだろう。
この稿の最後に「教育デザイン」の要諦について、自動車の運転免許と高校生の成長と学習指導を絡めて、認知心理学的な見地からの提言をしておきたい。下図は、自動車と運転者の視座との関係を示す。

↑ 自動車のサイズと運転者の位置
二輪車(左)なら、まだ「自己中心」の視点で運転ができなくはない。しかし、乗用車や大型車となると、運転席は全体の一部に限られてくる。もとより公道上を走るには自己中心であっては危険が伴うことは言うまでもない。いきおい自分以外の周囲に対する配慮が必要で、理想的には真上から自分を見下ろすような第三者的な視点を持つことが求められるようになってくる。自分を客観視できる「視座」の獲得であり、成熟した大人の証しとなる。この視座を養うように教育を設計しない限り、納税も選挙も無駄に終わる。
高校入学した頃から二輪車の免許取得が射程に入り、高校を卒業する頃には四輪者の免許取得に手が届くようになるのは、人間の成長に伴い持てる視点も自分中心の状態から他者へ向ける意識が芽生えてくることと根底で繋がっているように感じる。「自然成長」を待つに任せてきたのが従来の学校だったが、私は「自然成長」を促すよう学校教育がアシストする方向へ舵を切るべきだと考えている(竹内)。