当たり前のことであろう。こんな基本の基本ですら、これまでの高校教育は掲げてきていなかったのだ。「足場」を作らず、どうやって建物を築きあげていくのであろうか? ただし、基礎を営々と積み上げるという意味ではない。ハーバード大学の医学教室(Medical School)では、レンガのごとくカリキュラムを積み上げても「何も記憶に残らない」事実を25年間も追跡調査して実証した。また、授業を聞く時の脳波は、就寝時と同じだと実証された(河合塾の研究結果)。
❏探究学習のマグネット(引き寄せ)効果
❏国際競争力を育む教育方策への展望
てんこ盛りの学習課題を生徒へ押し売りするのは、教員と学校の「ご都合主義」だと思う。それで成功した例があるのなら教えて戴きたい。一見、成功した例があったとしても、私はそれも怪しくと思える。それは、この国の一向に「頼りにならない政府」、「弱々しくなった経済」、果ては、かつて信頼に足るべき科学や芸術の分野にまでも、暗雲が立ち込めているではないか? 理研然り、東京オリンピック然りである。果たしてこの先、日本丸はどこへ向かって漂流し続けるのだろうか?
まるで顔洗って出直せ・・とでも言わんばかりの、最近の天変地異の続発。誰しもが心の奥底では「そろそろヤバくないか」と感じているのではなかろうか? そう、日本の凋落は、1970年頃からの学校教育の変節に始まった・・と私は睨んでいる。
初歩から営々と築いた先に、自動的にゴールがあるのではない。ゴールに至るには、結晶の「核」になる「芯」が必要である。それは関心であったり、好奇心であったり、拘りであったり・・である。ゴールに至る途中のアチコチに凸凹した穴を残してきている。たくさん取りこぼしてきた無知や無能はいつか補填できるとして当座、目を瞑ってきた。しかし、仕事をしていく上で大きな支障は感じていない。もし全ての知識や技法を整えることが最初に必要だ者がいたら、名乗り出て欲しい。そして、「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチに挑んで欲しい。
第一、人は一生の間にいくつもの仕事を持つことできるだろうか? 私は職も住む国も転々と遍歴してきた方とは思うが、一つを選ぶことは他者を捨てること。私は日本に住んでいなかった間の日本の社会の出来事はスッポリ抜け落ちている。プラナリアのごとく分身の術はできない。
それなのに、なぜ学校は「通り一遍」を求めるのか。私は理系出身だが、たまたま国語や社会で点数が稼げた人間だったので、国公立大学進学や公務員試験で有利だっただけである。しかし、今の時代、書籍やネットを使えば、いくらでもデータ補充など可能だろう。昔のパソコンの用語で言えば、CPUの変更、RAMの増設、HDDの増設の順で重要であるのに、これまでの学校教育で進めてきた作業は、もっぱら何時でも容易に増設可能な「HDDの増設=知識の付与」ではないか?
私がスーパーサイエンスコースで実践しているのは、CPUの更新、クロック数の倍増、RAMの増設に匹敵すると、私は思っている。具体的には、今までの「学習観」の更新、素早いレスポンス(Googleで検索して、ヒットした情報から適否を分別する時の拍数)、対応できるジャンルや興味の拡大(叙情文を書くことから論説文を書くことへの守備範囲のシフト)などである。
何か一つの突破口を作ったら、そこが、その生徒固有の成長し始める「核」となる。その成長の核を見つけて、支援することが高校課程で求められている教育だと、私は思っている。そして、そのボタンを押してやることで、信じられないほどブーストする。私の手は、もう不要である。安心して、後は大学進学後に出会うであろう教員やその先の社会人らの手に委ねられるのだ。
昨日、小説を書き下ろした余力で、小論文も自力で書きあげた3年生が、次のステップの行動に自らアクションを起こし、そして成果を報告してくれた。共通しているのは、自分で一つ、成長の「核」となる作業に取り掛かってしまったことである。そのことで、いつの間にかセミプロの仲間入り(私は「殿堂の前室入り」と呼ぶ)をしてしまったのだ:
1)小説の事例:以前、読んだ小説を読み直してみたところ、作者がどういう気持ちでその部分を書いたのかを、自分自身が小説を書いたことで、照らし合わせて理解を深めることができた。
2)論文の事例:志望大学の教授が発表した論文を3報ほどダウンロードし、即座に読み終え、しかも3つの論文の共通点を抽出し、自分の意見を交えて議論し始めた。
※論文のダウンロードも論文の読み方も私は教えていないのに生徒が自主的にやり遂げたのだ。
要するに、彼女が「学び方」を習得できてきた証拠であろう。私は高専での5年間の経験を遡っても、ここほどの成功例を体験していない。ここに教育デザインの萌芽を見つけた想いがする。一般に、この国の高校生の大半が、授業を聞かず、意見も言えず、文章も書けないのが現実ではないだろうか?人は私が優秀な生徒を「選び、囲って、育てた」と言うかも知れないが、彼女は以前は下校時刻を遅くして帰宅したがったほど前籍校で傷ついた生徒だった。もともと辛抱強いタイプだったが、自信を育てるには新しいことに挑戦してもらう行動が必要不可欠であった。

↑教室に出没する「見ざる、聞かざる、言わざる」
彼女をブーストしたのは、5月に3日間の英語学習でマンツーマンの特訓をしたのが発端である。8月中に3日間の英文エッセイ・ライティングの特訓も仕掛けたが、英語のロジック展開を体得したことで、文学作品と論説文との相違点を自らの力で発見することに繋がったのである。
自ら「発見する」学びとその喜びに、理系と文系の差はない。この喜びを知ってしまったが最後、もう彼女は「学び」を止めることなどないであろう。高校課程で行うべき教育は本来、こういう「一生、成長し続ける」力を付与させることではないだろうか。
意外かも知れないが、私の指導に適した生徒は、世間で言う「できない」生徒の方である。私は、むしろ彼らの方が「できる」生徒へ化ける可能性に掛けたいのだ。私の指導法は作業を通じて必要な学習事項をその都度、教科の枠を越えて教授する方針である。例えば、実験のデータ処理で生徒が明らかに「比例配分」の概念を理解していないケースが疑われたが、使う場面を通じて教える方針である。それで理解してしまう。「ユーザ」の目線で全ての教科を包括していくのが、私の役目である。高校生に対し、理解していないからという理由で中学校や小学校のレベルまで降りて貰っていたら切りがない。現実問題として、漢字が読めない大学生や分数ができない都庁職員がいたとの噂を耳にすることもあるが、天地がひっくり返るほどのことでもあるまい。確か漢字が読めない総理大臣云々、という逸話もかってあったかと思う(竹内)。
❏探究学習のマグネット(引き寄せ)効果
❏国際競争力を育む教育方策への展望
てんこ盛りの学習課題を生徒へ押し売りするのは、教員と学校の「ご都合主義」だと思う。それで成功した例があるのなら教えて戴きたい。一見、成功した例があったとしても、私はそれも怪しくと思える。それは、この国の一向に「頼りにならない政府」、「弱々しくなった経済」、果ては、かつて信頼に足るべき科学や芸術の分野にまでも、暗雲が立ち込めているではないか? 理研然り、東京オリンピック然りである。果たしてこの先、日本丸はどこへ向かって漂流し続けるのだろうか?
まるで顔洗って出直せ・・とでも言わんばかりの、最近の天変地異の続発。誰しもが心の奥底では「そろそろヤバくないか」と感じているのではなかろうか? そう、日本の凋落は、1970年頃からの学校教育の変節に始まった・・と私は睨んでいる。
初歩から営々と築いた先に、自動的にゴールがあるのではない。ゴールに至るには、結晶の「核」になる「芯」が必要である。それは関心であったり、好奇心であったり、拘りであったり・・である。ゴールに至る途中のアチコチに凸凹した穴を残してきている。たくさん取りこぼしてきた無知や無能はいつか補填できるとして当座、目を瞑ってきた。しかし、仕事をしていく上で大きな支障は感じていない。もし全ての知識や技法を整えることが最初に必要だ者がいたら、名乗り出て欲しい。そして、「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチに挑んで欲しい。
第一、人は一生の間にいくつもの仕事を持つことできるだろうか? 私は職も住む国も転々と遍歴してきた方とは思うが、一つを選ぶことは他者を捨てること。私は日本に住んでいなかった間の日本の社会の出来事はスッポリ抜け落ちている。プラナリアのごとく分身の術はできない。
それなのに、なぜ学校は「通り一遍」を求めるのか。私は理系出身だが、たまたま国語や社会で点数が稼げた人間だったので、国公立大学進学や公務員試験で有利だっただけである。しかし、今の時代、書籍やネットを使えば、いくらでもデータ補充など可能だろう。昔のパソコンの用語で言えば、CPUの変更、RAMの増設、HDDの増設の順で重要であるのに、これまでの学校教育で進めてきた作業は、もっぱら何時でも容易に増設可能な「HDDの増設=知識の付与」ではないか?
私がスーパーサイエンスコースで実践しているのは、CPUの更新、クロック数の倍増、RAMの増設に匹敵すると、私は思っている。具体的には、今までの「学習観」の更新、素早いレスポンス(Googleで検索して、ヒットした情報から適否を分別する時の拍数)、対応できるジャンルや興味の拡大(叙情文を書くことから論説文を書くことへの守備範囲のシフト)などである。
何か一つの突破口を作ったら、そこが、その生徒固有の成長し始める「核」となる。その成長の核を見つけて、支援することが高校課程で求められている教育だと、私は思っている。そして、そのボタンを押してやることで、信じられないほどブーストする。私の手は、もう不要である。安心して、後は大学進学後に出会うであろう教員やその先の社会人らの手に委ねられるのだ。
昨日、小説を書き下ろした余力で、小論文も自力で書きあげた3年生が、次のステップの行動に自らアクションを起こし、そして成果を報告してくれた。共通しているのは、自分で一つ、成長の「核」となる作業に取り掛かってしまったことである。そのことで、いつの間にかセミプロの仲間入り(私は「殿堂の前室入り」と呼ぶ)をしてしまったのだ:
1)小説の事例:以前、読んだ小説を読み直してみたところ、作者がどういう気持ちでその部分を書いたのかを、自分自身が小説を書いたことで、照らし合わせて理解を深めることができた。
2)論文の事例:志望大学の教授が発表した論文を3報ほどダウンロードし、即座に読み終え、しかも3つの論文の共通点を抽出し、自分の意見を交えて議論し始めた。
※論文のダウンロードも論文の読み方も私は教えていないのに生徒が自主的にやり遂げたのだ。
要するに、彼女が「学び方」を習得できてきた証拠であろう。私は高専での5年間の経験を遡っても、ここほどの成功例を体験していない。ここに教育デザインの萌芽を見つけた想いがする。一般に、この国の高校生の大半が、授業を聞かず、意見も言えず、文章も書けないのが現実ではないだろうか?人は私が優秀な生徒を「選び、囲って、育てた」と言うかも知れないが、彼女は以前は下校時刻を遅くして帰宅したがったほど前籍校で傷ついた生徒だった。もともと辛抱強いタイプだったが、自信を育てるには新しいことに挑戦してもらう行動が必要不可欠であった。

↑教室に出没する「見ざる、聞かざる、言わざる」
彼女をブーストしたのは、5月に3日間の英語学習でマンツーマンの特訓をしたのが発端である。8月中に3日間の英文エッセイ・ライティングの特訓も仕掛けたが、英語のロジック展開を体得したことで、文学作品と論説文との相違点を自らの力で発見することに繋がったのである。
自ら「発見する」学びとその喜びに、理系と文系の差はない。この喜びを知ってしまったが最後、もう彼女は「学び」を止めることなどないであろう。高校課程で行うべき教育は本来、こういう「一生、成長し続ける」力を付与させることではないだろうか。
意外かも知れないが、私の指導に適した生徒は、世間で言う「できない」生徒の方である。私は、むしろ彼らの方が「できる」生徒へ化ける可能性に掛けたいのだ。私の指導法は作業を通じて必要な学習事項をその都度、教科の枠を越えて教授する方針である。例えば、実験のデータ処理で生徒が明らかに「比例配分」の概念を理解していないケースが疑われたが、使う場面を通じて教える方針である。それで理解してしまう。「ユーザ」の目線で全ての教科を包括していくのが、私の役目である。高校生に対し、理解していないからという理由で中学校や小学校のレベルまで降りて貰っていたら切りがない。現実問題として、漢字が読めない大学生や分数ができない都庁職員がいたとの噂を耳にすることもあるが、天地がひっくり返るほどのことでもあるまい。確か漢字が読めない総理大臣云々、という逸話もかってあったかと思う(竹内)。