以前、実験室のない都庁の本庁舎へ異動となった頃、ネイティブに英語を個人教授してもらっていた時期がある。彼は上智大学への交換留学生で、米国・東海岸にある大学でヴァッサー・カレッジ (Vassar College)の学生で名前はピーターと言った。神保町交差点付近にあった(今はない)学校で、1時間に1万円ほど支払って東京都職員海外研修制度に応募するための小論文を書いたり、渡航先に出す手紙の書き方などを教わった。提出を求められる課題論文は英語ではなく、日本語である。 しかし、私自身は”提出が求められていない”原稿を英語で最初から書き起こし、日本語で改めて書き直した課題論文を東京都職員研修所に提出したのである。

↑筆者の海外研修報告書の表紙
なぜ選考に使いもしない英文エッセイを準備したのかと言うと、私は海外へ渡航して取り組むことが最終ゴールであり、選考はその途中経過に過ぎないと考えたのである。 多くの人が近視眼的にモノゴトを捉え、選考が通らなければ無駄であろうと考えて間違えてしまう。実は「入試」と大学に入学してから始まる「勉学」の関係も全く同様である。 この近視眼的なトリックに引っかかってしまう人が後を絶たないのは、誠に残念でならない。要はゴールを目指していく「途中で成長が起こる」ようにデザインしていくのが、私の教育デザインの発想の骨子である。
この英文エッセイを書く体験で、米国の大学には大規模校と小規模校があり、濃密な教育を受けようとしたら小規模校のリベラルアーツ・カレッジを敢えて選ぶケースがあるのを知った。確かにカリフォルニア大学はいくつもの分校があり、たくさんのノーベル賞級の教授陣を擁し、豪華であることは間違いないが、大学の規模が大き過ぎ教育を受けるには密度が希薄になってしまう弱みがある。彼が言うに「リベラルアーツ・カレッジで濃密な師弟関係の下で指導を受け、専攻したい専門分野を見つけてから該当する教授がいる大学院大学を目指せば良い」ということであった。さらに、旧東京都立大学や国際基督教大学(ICU)など小規模大学はuniversityではなくcollegeなのだと彼は指摘した。確かに学校の規模や役割の面で考えたら、妥当な解釈だろうと思う。彼の考え方に従うと、Harvardも、今では専門大学院が拡充されてきたので見分けにくいが本来、リベラルアーツ・カレッジの名残りを留めている。
翻って、日本の高専である。明らかに大学と並んで高等教育機関に属するが、高校生の年代から大学学部まで7年間を包括するという点で特異的であり、日本では稀有な変則的な位置づけである。OECD教育調査団が高専制度の存在を知って目を丸くしたのも頷ける。
これは私自身が経験した例であるが、国立大学の理事のご子息が兄弟揃って、高専へ来ていた。私はその2人を教えたことがあるから父親がいる大学へ行ける学力は十分に備えていたのも知っているので、なぜわざわざ自宅からも近い大学へ行かせず、高専へ差し向けたのか不思議でならなかった。
今にして想うと、やはりそこで受けられる「教育の密度」を期待していたとしか思えない。高専には問題も山積しているが、卒業研究で教員の研究室に同居して丸1年間、教員が4名程度の学生を濃密に指導できるシステムを持っていることは事実である。そして本科の5年間が大学学部、専攻科は修士課程ではないかと、在籍して錯覚を感じさせるほど構造的に恵まれている。
しかし、授業のコマ数の多さを初めとして寮生指導や部活指導など、業務がてんこ盛り過ぎる。高価な備品や図書室などの蔵書、エルゼビア社など国際誌の購読契約など潤沢に投資してあってもリソースを活かす時間が底を尽いたのが現実であった。役職の兼務が増えてからは深夜3時頃に風呂に入りに帰り、明け方に研究室へトンボ返りしても、それでも時間が足りなかった。日本人ほど一度決まった仕事が無駄だからと言って自らの手で省くことが下手な民族はないだろう。自分たちで決めたことなど、自分たち以外の他の誰が清算することができるのか考えるべきだ。
大阪の教育特区に誕生した新設校へ来て、リセットできたメリットは大きかった。ゼロから部活を導入し、「探究学習」、「創作学習」、「体験学習」など順次、高校教育に求められていくであろう新しい「教育コンセプト」をデザインしてきている。特に、少人数の環境だからこそ濃密な関係を築き、師弟関係の化学反応を極めて短期間に触媒できるメリットを感じる(竹内)。

↑筆者の海外研修報告書の表紙
なぜ選考に使いもしない英文エッセイを準備したのかと言うと、私は海外へ渡航して取り組むことが最終ゴールであり、選考はその途中経過に過ぎないと考えたのである。 多くの人が近視眼的にモノゴトを捉え、選考が通らなければ無駄であろうと考えて間違えてしまう。実は「入試」と大学に入学してから始まる「勉学」の関係も全く同様である。 この近視眼的なトリックに引っかかってしまう人が後を絶たないのは、誠に残念でならない。要はゴールを目指していく「途中で成長が起こる」ようにデザインしていくのが、私の教育デザインの発想の骨子である。
この英文エッセイを書く体験で、米国の大学には大規模校と小規模校があり、濃密な教育を受けようとしたら小規模校のリベラルアーツ・カレッジを敢えて選ぶケースがあるのを知った。確かにカリフォルニア大学はいくつもの分校があり、たくさんのノーベル賞級の教授陣を擁し、豪華であることは間違いないが、大学の規模が大き過ぎ教育を受けるには密度が希薄になってしまう弱みがある。彼が言うに「リベラルアーツ・カレッジで濃密な師弟関係の下で指導を受け、専攻したい専門分野を見つけてから該当する教授がいる大学院大学を目指せば良い」ということであった。さらに、旧東京都立大学や国際基督教大学(ICU)など小規模大学はuniversityではなくcollegeなのだと彼は指摘した。確かに学校の規模や役割の面で考えたら、妥当な解釈だろうと思う。彼の考え方に従うと、Harvardも、今では専門大学院が拡充されてきたので見分けにくいが本来、リベラルアーツ・カレッジの名残りを留めている。
翻って、日本の高専である。明らかに大学と並んで高等教育機関に属するが、高校生の年代から大学学部まで7年間を包括するという点で特異的であり、日本では稀有な変則的な位置づけである。OECD教育調査団が高専制度の存在を知って目を丸くしたのも頷ける。
これは私自身が経験した例であるが、国立大学の理事のご子息が兄弟揃って、高専へ来ていた。私はその2人を教えたことがあるから父親がいる大学へ行ける学力は十分に備えていたのも知っているので、なぜわざわざ自宅からも近い大学へ行かせず、高専へ差し向けたのか不思議でならなかった。
今にして想うと、やはりそこで受けられる「教育の密度」を期待していたとしか思えない。高専には問題も山積しているが、卒業研究で教員の研究室に同居して丸1年間、教員が4名程度の学生を濃密に指導できるシステムを持っていることは事実である。そして本科の5年間が大学学部、専攻科は修士課程ではないかと、在籍して錯覚を感じさせるほど構造的に恵まれている。
しかし、授業のコマ数の多さを初めとして寮生指導や部活指導など、業務がてんこ盛り過ぎる。高価な備品や図書室などの蔵書、エルゼビア社など国際誌の購読契約など潤沢に投資してあってもリソースを活かす時間が底を尽いたのが現実であった。役職の兼務が増えてからは深夜3時頃に風呂に入りに帰り、明け方に研究室へトンボ返りしても、それでも時間が足りなかった。日本人ほど一度決まった仕事が無駄だからと言って自らの手で省くことが下手な民族はないだろう。自分たちで決めたことなど、自分たち以外の他の誰が清算することができるのか考えるべきだ。
大阪の教育特区に誕生した新設校へ来て、リセットできたメリットは大きかった。ゼロから部活を導入し、「探究学習」、「創作学習」、「体験学習」など順次、高校教育に求められていくであろう新しい「教育コンセプト」をデザインしてきている。特に、少人数の環境だからこそ濃密な関係を築き、師弟関係の化学反応を極めて短期間に触媒できるメリットを感じる(竹内)。