人間の学びは「ものまね」、すなわち「模倣」がベースとして基本設計されている。これは、赤ん坊の学習行動を見れば明らかであろう。これは、知識や技能の習得だけでなく、他人がどう感じるかという思慮深さや思いやりの面という観点から見ても「人間を人間たらしめている」領域であろう。
これは人間に生まれながらに備わった健全化のシステムだろうと思うが、なまじ学校教育の力点が「答えが正しいか否か」という本質的に重要ではない方向へ向いてしまったがため、人間が生得的に備えていたはずの「正常な認知能力」に支障をきたしてきたのではないかと睨んでいる。
例えば、成長していく他人を見て穏やかでない気持ちがフツフツと湧いてきたり、時に脚を引っ張りたくなる嫉妬心は、学校教育に間違って組み込まれてきた「競争原理」が引き起こした弊害であり、明らかに人の属性から見て「異物混入」である。つまり教育デザイン上のミスである。
イタリアのパルマ学派が核となって開拓した脳・認知科学の領域に「ミラーニューロン」がある。当該分野の知見を「教育デザイン」の論拠として取り込んでいくべきだろうと私は睨んでいる。

↑イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』(早川書房、2009)
スーパーサイエンスコースでは、教員同士や生徒同士が一体となって相互に学びとなる関係を再構築したいと考えている。そのため学校で行われる「一斉授業」形式は原則、採用していない。
その結果、教員同士や生徒同士で、予定調和にない「意外性を伴った発見」をする期待感がある。課題は、それが新たな学びだと感じ取れる「感受性」を磨くことである。新たな学びを体験すれば、人間がイキイキとしてくるのは当然のこと。逆に、嫌なコトを我慢させていれば辟易するのも当然。しばしばスーパーサイエンスコースの生徒は目が輝いていると評されるが、それは単に本人に好き放題させているからではない。自由にさせても、そこに成長している実感が伴わなければ不安が増すだけである。何か成長を実感できない限り、人は満足感は感じ得ないのだ。
それを私は、教員同士や生徒同士が「成長していく姿を見せる」ことで実現するというデザインに賭けた。それは当初、ヨチヨチ歩きで、カリキュラム全体の1%にも満たない範囲かも知れない。しかし、1%という真の成長を足掛かりにすれば、次の段階に続く成長へ繋がるに違いないと予期したのである。
教員として指導の要は、生徒の特性を見極め、教材やテーマ、方法を助言してやることである。私自身はスポーツの指導に明るくないが、コーチ役の采配は以前からこのように実践してきたのではないだろうか? それが教科に代わった途端、「一斉授業」と「単一評価」に陥る理由が理解し難い。恐らく技能と知識の伝授は異なると言うのだろうが、知識なら情報検索が容易になり、教育の軸は「知識の獲得手法」、すなわち「技能習得」の問題へ既に移行している。
私が「ものまね」の重要さに気づいたのは、実に小学校5年生の経験まで遡る。私が泳ぎ(水性)を覚えた時のことだ。私と同じく泳げない友人が、プールの中で突然、「準ちゃん、泳げるよ。ほら、見ててご覧!」と叫んだ瞬間だ。私は呆然と「あ、ホントに泳いでいる。」と眺め、そして私は単純に真似た。そうしたら、自分も泳げたのだ。これが、私の手法の原風景である。
私の中で「泳げなかった私」と「泳げるようになった私」との間の違いに差異を感じない。それは決して「訓練」の賜物でも、「根性」の賜物でもなかった。ひいて言うならば「意識」の問題で、「泳げない」という意識をいとも簡単に覆してくれたのが、友人が見せた行動だったのだ。私はただ仲間の行動を「真似た」だけであり、これが学びの原点である。
スーパーサイエンスコースは、できない者ができる者に変わるハツラツとした場にして行きたい。本来、誰でも感化を受ける度量を生得的に備えていると期待している。それでは、何が人の成長の邪魔をさせてきたのだろうか?
その雰囲気に合わない人が出るとしたら、成長していく仲間を素直には喜べない捻くれた心であろう。恐らくは競争原理が働く「修羅」世界や弱肉強食の「畜生」世界に慣らされてしまった人たちかも知れない。しかし、人の、ましてや仲間の成長を喜べないステージに留まっていたら永遠にその人に成長が起こらないことに気づくべきであろう。
いま一度。目の前で泳いだ友人を私が羨んで指を咥えていたら、泳げるかどうか自分を疑っていたら、私は今なお泳げないままでいただろうと思う。人間の成長にとって「素直さ」や「純粋さ」がどれだけ大切かがわかるであろう。それは、間違いなく「能力」以前の問題なのだ(竹内)。
これは人間に生まれながらに備わった健全化のシステムだろうと思うが、なまじ学校教育の力点が「答えが正しいか否か」という本質的に重要ではない方向へ向いてしまったがため、人間が生得的に備えていたはずの「正常な認知能力」に支障をきたしてきたのではないかと睨んでいる。
例えば、成長していく他人を見て穏やかでない気持ちがフツフツと湧いてきたり、時に脚を引っ張りたくなる嫉妬心は、学校教育に間違って組み込まれてきた「競争原理」が引き起こした弊害であり、明らかに人の属性から見て「異物混入」である。つまり教育デザイン上のミスである。
イタリアのパルマ学派が核となって開拓した脳・認知科学の領域に「ミラーニューロン」がある。当該分野の知見を「教育デザイン」の論拠として取り込んでいくべきだろうと私は睨んでいる。

↑イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』(早川書房、2009)
スーパーサイエンスコースでは、教員同士や生徒同士が一体となって相互に学びとなる関係を再構築したいと考えている。そのため学校で行われる「一斉授業」形式は原則、採用していない。
その結果、教員同士や生徒同士で、予定調和にない「意外性を伴った発見」をする期待感がある。課題は、それが新たな学びだと感じ取れる「感受性」を磨くことである。新たな学びを体験すれば、人間がイキイキとしてくるのは当然のこと。逆に、嫌なコトを我慢させていれば辟易するのも当然。しばしばスーパーサイエンスコースの生徒は目が輝いていると評されるが、それは単に本人に好き放題させているからではない。自由にさせても、そこに成長している実感が伴わなければ不安が増すだけである。何か成長を実感できない限り、人は満足感は感じ得ないのだ。
それを私は、教員同士や生徒同士が「成長していく姿を見せる」ことで実現するというデザインに賭けた。それは当初、ヨチヨチ歩きで、カリキュラム全体の1%にも満たない範囲かも知れない。しかし、1%という真の成長を足掛かりにすれば、次の段階に続く成長へ繋がるに違いないと予期したのである。
教員として指導の要は、生徒の特性を見極め、教材やテーマ、方法を助言してやることである。私自身はスポーツの指導に明るくないが、コーチ役の采配は以前からこのように実践してきたのではないだろうか? それが教科に代わった途端、「一斉授業」と「単一評価」に陥る理由が理解し難い。恐らく技能と知識の伝授は異なると言うのだろうが、知識なら情報検索が容易になり、教育の軸は「知識の獲得手法」、すなわち「技能習得」の問題へ既に移行している。
私が「ものまね」の重要さに気づいたのは、実に小学校5年生の経験まで遡る。私が泳ぎ(水性)を覚えた時のことだ。私と同じく泳げない友人が、プールの中で突然、「準ちゃん、泳げるよ。ほら、見ててご覧!」と叫んだ瞬間だ。私は呆然と「あ、ホントに泳いでいる。」と眺め、そして私は単純に真似た。そうしたら、自分も泳げたのだ。これが、私の手法の原風景である。
私の中で「泳げなかった私」と「泳げるようになった私」との間の違いに差異を感じない。それは決して「訓練」の賜物でも、「根性」の賜物でもなかった。ひいて言うならば「意識」の問題で、「泳げない」という意識をいとも簡単に覆してくれたのが、友人が見せた行動だったのだ。私はただ仲間の行動を「真似た」だけであり、これが学びの原点である。
スーパーサイエンスコースは、できない者ができる者に変わるハツラツとした場にして行きたい。本来、誰でも感化を受ける度量を生得的に備えていると期待している。それでは、何が人の成長の邪魔をさせてきたのだろうか?
その雰囲気に合わない人が出るとしたら、成長していく仲間を素直には喜べない捻くれた心であろう。恐らくは競争原理が働く「修羅」世界や弱肉強食の「畜生」世界に慣らされてしまった人たちかも知れない。しかし、人の、ましてや仲間の成長を喜べないステージに留まっていたら永遠にその人に成長が起こらないことに気づくべきであろう。
いま一度。目の前で泳いだ友人を私が羨んで指を咥えていたら、泳げるかどうか自分を疑っていたら、私は今なお泳げないままでいただろうと思う。人間の成長にとって「素直さ」や「純粋さ」がどれだけ大切かがわかるであろう。それは、間違いなく「能力」以前の問題なのだ(竹内)。