高校3年生は進路の選択を話題にする時期に差しかかる。今の常識では偏差値学力によって振り分けられる感が根強い。しかし、偏差値のような一直線の「数直線」で本来、多様であるはずの人間の特性や職業の選択を振り分けるなんぞ、人間や社会を粗末にした話だと、私は思っている。

私が間近に高校生を見ていて感じる大切な指標は、きわめて単純明快であり、本を読んだり文章を書いたりすることが苦手だとする生徒は本来、「大学教育に向いていない。」というのが私の判断である。

それでは、どのような進路が向いているかと言えば、それは専門学校だと思う。専門学校は決まった特定の専門的な知識が技術を習得し、その専門性を活かした進路を目指す。多くの場合、一定の基準を満たす資格試験で専門性を共有して一定の枠内で質保証をする。それで、何ら問題がないのだ。

それに対し、大学こそ教育効果も教育水準も曖昧である。それに一定の職能水準など保証できるはずもなく、「答えなき問題」を見い出し、解明していくのが大学が担う本来の役目である。言わば、「道なき道」を行く気概で時には、伝統に収まらない新分野を切り開く姿勢も求められる。

例えば、一定範囲の専門性を認定し、保証する資格取得が係る領域、例えば法学(弁護士)、医学(医師)、薬学(薬剤師)、工学(技術士)など原則、私は「専門学校的である」と睨んでいる。無論、議論が別れるような論点に関しては引き続き、学窓で論議することは構わないだろう。しかし、社会の第一線へ出て現場従事する者が、学術研究の拠点に身を置くことが賢明であるかどうか今後、マトモな議論が必要になるだろうと私は予測している。

iPS細胞の開発で名高い山中伸弥博士は当初、臨床医を目指していたが途中から研究畑へ転向して成功した研究者のタイプとして知られている。すなわち、臨床医は手先の器用さ、高い倫理性、決断の的確さが求められる技能職で、一定の枠内でその能力が花開く。一方、基礎医学は生命科学であり、独自の着眼点や問題解決能力が求められる研究職である。こちらは、どちらが上という問題ではなく、属性の違いがあるとしか言いようがない。しかし、現実的には偏差値が高い受験生がより難易度の高い大学医学部を目指し、頭脳明晰さを立証しようと努力する姿勢は滑稽という他はないだろう。

逆に、どれほど発想が斬新であっても、技能上のミスで患者が死んだり、設計上のミスで建物が倒壊したりしたら、質保証が保たれたとは言えないのである。この明らかに異質なカテゴリーが現実社会で「ごった煮」の状態になってしまっている。仮に、基礎医学に生命科学に実践性や倫理性が乏しいと懸念するなら、何らかの形で現場と接点の生じるシステムを補強すれば済む。

専門学校というネーミングに重みがないと感ずる向きがあるかも知れない。しかし、良く考えれば大学とて重厚かも知れないが、鈍重な要素もある。経営や創造の分野で、しばしば大学中退者の方が高いパフォーマンスを発揮している幾多の事例は、大学の鈍重な環境に長く浸かり過ぎても反って命取りになることがあるからだと示唆している感もする。

多くの保護者は、我が子に専門学校より大学へ進学して貰うことを期待するだろう。しかし、それが我が子の幸せや選択した職業分野の未来を真に考慮したものか、はたまた世間の目を気にした配慮か、胸に手を当てて考えてやるべき時代の曲がり角に来ていると思う。「あなたのお子さんは、どちらの大学へ?」と聞かれた時に、答える時の親の満足感が全てでは何とやらである。

以前、英国では研究大学と職業訓練のための高等教育機関は分かれていて、後者はポリテクニックと呼ばれていた。また、米国では、研究大学とは別に2年制のコミュニティーカレッジが設置されていた。どちらもキャリア教育が主の高等教育機関であったが、一般の大学に組み込まれる形で編成され、大学へと昇格していった。

日本では逆に、大学としての体を満たさない不振な大学から専門学校に格下げするような動きがある。大学全体の質保証のためには好ましい動きだと思うけれど、昇格とか降格という論点では本来、ないと私自身は感じている(竹内)。


 ↑ハワイ大学マウイ校のカフェテリア

付記:学生が調理実習や食堂経営する訓練を受けるだけでなく、学食内でTVカメラを回し(画像右側)、放送局の職業訓練も実施している。さらに構内に自動車の整備工場も備え、実地で職業訓練している。