小中高の教員になるには、日本の教育職員免許状(略称、教員免許)が必要と法律で定められている。一方、高等教育である高専と大学(短大を含む)の教員は通常、博士号が求められる。私自身、教職課程を履修し教育実習も終えたが、1単位不足で教職への道を迂回してきた。学問への憧憬もあったが、何より自由な教授スタイルを制限されたくなかったからだ(NHKラジオ英会話講師をした大杉正明先生が、私と同じ理由で中高の教員の道を避け、大学教員になっていた)。生徒にはよく自分自身のことを「ニワカ教師」だと口にしているが、実際のところ、教育特区に適用される特別免許状を申請して教壇に立ち、大阪校では幸いと独自に生徒の状態をみて編み出す教え方を実践できる場が実現している。それに、この方が圧倒的に教員の力も付いていくのだ。

↑主人公は腕が立つが、無免許との設定
高専は極めて変則的であり、高専(本科5年間)の1年から3年次までは高等学校と完全に被る年代であるが、教員免許を持たないが博士号を持つ教員が教壇に立つことができる。ちなみに私は、中学校を出たての1年生(15歳)に対し教授として大学の授業に準じた教育を行ってきた。実際、大学3年次編入した卒業生から「先生(この文脈では私)の授業は大学で受ける授業と同じスタイルでした。」と言われる。
大阪校のスーパーサイエンス通学コースで進めている教育スタイルも基本、大学教育と変わらない。それも海外の大学、大学院を学生及び研究員としても参画し、子供たちをインターナショナルスクールや英国の現地校へ入れているので、全てを加味した教育・研究活動を実践している。外の学校は保護者をヘルパーとして学校や教室へ参加することも歓迎し、開放的(open-minded)なのだ。成績も加点法で、人物像が浮かぶ記述式である。
それに比べたら、日本の学校はとかく息が詰まる。ガチガチに規則で固められている。成績評価も、生身の人間を数字に変えるシステムを組んでしまっている。これでは、頭もガチガチにならない方が不思議だ。大阪府池田市でスマイルファクトリーを主宰する白井智子さんもオーストラリアで育った幼少時、「あの学校だけはイヤ。」と子供ながらに抵抗したのが日本人が通う学校で、日本へ帰国してからも日本の学校教育に愕然としたそうだ。
何が日本の学校や教員を傲慢に権威づけさせているのだろうか? 私は教員免許や学習指導要領などの当初、良かれと導入したはずの日本型教育システムが既に制度疲労するに至っているのだと思う。その結果、学校に風通しの悪い閉鎖空間を生み、教員は閉じこもりのまま"大人"として子供たちと接触している構図に他ならない。子供同士の陰湿な虐め、教師の体罰や不祥事、既にボロボロだ。
佳川奈未さんが作家になる以前のご自身が受けた虐め体験に加え、長男を虐め問題を民事警察の協力を得て解決していく手法を開示した『いじめは2学期からひどくなる!』は救命活動のためポプラ社から緊急出版されたが、この夏休みの前後も虐めを苦にした自殺は現在進行形で、明日のニュースで報じられても不思議でない。
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母親:「いまから、学校に警察とともに乗り込んで、暴力事件の犯人として、その子を逮捕してもらうよう動きます! 被害届はもう出していますので、逮捕状をもってきてもらうだけですから!」
校長:「待ってください! それはちょっと待ってください! いますぐ対応します! 今日、(中略)詳しく確認をし、明日の話し合いにのぞみますから」
母親:「校長! あなた! さっき、2週間かかる、明日は無理だと言っておいて、警察がくると言ったら、いますぐ対応します! 明日話し合いにのぞみます! と言えるなら、なぜ、それを最初に口にしないんです?」
(佳川奈未、『いじめは2学期からひどくなる!』ポプラ社、2012年刊から抜粋、146-147頁)
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その後も、教員らの論理のすり替えや否認など幾多の学校側との応戦の末、虐めの主犯は号泣し、暴走は止まったのだ。暴走を止めたのは止められるはずの学校関係者ではない。これでは、何のための教員免許であり、権限の委譲なのか?保護者が生んだ子に対する生存権すら保証できない国の大人はどうなっているのか? 尾木ママは怒って「殺人学校」と発言したが、ホントは「殺人教師」だと言いたかったのではあるまいか? 虐めにあう子供にとっては学校へ行くことが「猛獣の檻」に閉じ込められに行くことであり、当事者以外は傍観者なのだ。これで人間が絶望しなかったら、その方が不思議である。白昼、堂々と傷害行為や殺人行為が行われているのが学校であり、それを平気で放置して報酬と地位を得ているのが教員であり、傍観も同罪である。
大人が「恥」を知るべし。"大人でなき大人"が跋扈しているうち、随分と恥ずべき国に堕ちたものだ。失われた20-30年を掛けて、日本は虐めっ子らが蔓延る"大人"社会を作ってきた。すべて学校を通過点として・・なのだ。さぁ、どうする(竹内)。

↑主人公は腕が立つが、無免許との設定
高専は極めて変則的であり、高専(本科5年間)の1年から3年次までは高等学校と完全に被る年代であるが、教員免許を持たないが博士号を持つ教員が教壇に立つことができる。ちなみに私は、中学校を出たての1年生(15歳)に対し教授として大学の授業に準じた教育を行ってきた。実際、大学3年次編入した卒業生から「先生(この文脈では私)の授業は大学で受ける授業と同じスタイルでした。」と言われる。
大阪校のスーパーサイエンス通学コースで進めている教育スタイルも基本、大学教育と変わらない。それも海外の大学、大学院を学生及び研究員としても参画し、子供たちをインターナショナルスクールや英国の現地校へ入れているので、全てを加味した教育・研究活動を実践している。外の学校は保護者をヘルパーとして学校や教室へ参加することも歓迎し、開放的(open-minded)なのだ。成績も加点法で、人物像が浮かぶ記述式である。
それに比べたら、日本の学校はとかく息が詰まる。ガチガチに規則で固められている。成績評価も、生身の人間を数字に変えるシステムを組んでしまっている。これでは、頭もガチガチにならない方が不思議だ。大阪府池田市でスマイルファクトリーを主宰する白井智子さんもオーストラリアで育った幼少時、「あの学校だけはイヤ。」と子供ながらに抵抗したのが日本人が通う学校で、日本へ帰国してからも日本の学校教育に愕然としたそうだ。
何が日本の学校や教員を傲慢に権威づけさせているのだろうか? 私は教員免許や学習指導要領などの当初、良かれと導入したはずの日本型教育システムが既に制度疲労するに至っているのだと思う。その結果、学校に風通しの悪い閉鎖空間を生み、教員は閉じこもりのまま"大人"として子供たちと接触している構図に他ならない。子供同士の陰湿な虐め、教師の体罰や不祥事、既にボロボロだ。
佳川奈未さんが作家になる以前のご自身が受けた虐め体験に加え、長男を虐め問題を民事警察の協力を得て解決していく手法を開示した『いじめは2学期からひどくなる!』は救命活動のためポプラ社から緊急出版されたが、この夏休みの前後も虐めを苦にした自殺は現在進行形で、明日のニュースで報じられても不思議でない。
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母親:「いまから、学校に警察とともに乗り込んで、暴力事件の犯人として、その子を逮捕してもらうよう動きます! 被害届はもう出していますので、逮捕状をもってきてもらうだけですから!」
校長:「待ってください! それはちょっと待ってください! いますぐ対応します! 今日、(中略)詳しく確認をし、明日の話し合いにのぞみますから」
母親:「校長! あなた! さっき、2週間かかる、明日は無理だと言っておいて、警察がくると言ったら、いますぐ対応します! 明日話し合いにのぞみます! と言えるなら、なぜ、それを最初に口にしないんです?」
(佳川奈未、『いじめは2学期からひどくなる!』ポプラ社、2012年刊から抜粋、146-147頁)
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その後も、教員らの論理のすり替えや否認など幾多の学校側との応戦の末、虐めの主犯は号泣し、暴走は止まったのだ。暴走を止めたのは止められるはずの学校関係者ではない。これでは、何のための教員免許であり、権限の委譲なのか?保護者が生んだ子に対する生存権すら保証できない国の大人はどうなっているのか? 尾木ママは怒って「殺人学校」と発言したが、ホントは「殺人教師」だと言いたかったのではあるまいか? 虐めにあう子供にとっては学校へ行くことが「猛獣の檻」に閉じ込められに行くことであり、当事者以外は傍観者なのだ。これで人間が絶望しなかったら、その方が不思議である。白昼、堂々と傷害行為や殺人行為が行われているのが学校であり、それを平気で放置して報酬と地位を得ているのが教員であり、傍観も同罪である。
大人が「恥」を知るべし。"大人でなき大人"が跋扈しているうち、随分と恥ずべき国に堕ちたものだ。失われた20-30年を掛けて、日本は虐めっ子らが蔓延る"大人"社会を作ってきた。すべて学校を通過点として・・なのだ。さぁ、どうする(竹内)。