小説家志望の生徒に英語の長文読解を指導してきました。試験問題に向かう際、最初にキーワードを見つけ、その語句を手掛かりにこれから展開される論旨を"予測しながら"読むコツを伝授してきました。例えば、「policeman(警官)」が論じられる英文ならそれなりに、「actor(俳優)」が話題となる英文なら、それぞれ別の論点と論理の展開が予想されます。英文はパラグラフ単位でキーセンテンスが置かれており、次のパラグラフに緻密に繋がっていく構造をしています。そして読み手を著者の結論へ誘導する仕組みになっています。この要件を備えていない英文は厳密な意味では英文とは呼べません(日本の英語教育で欠落した視点です)。当然、次を予想すれば素早く、内容もシッカリ掴めるカラクリになっています。
欧米の大学では大量の文献や図書の読書が課せられると言います。修士論文や博士論文の最初の章も実は、研究テーマに関する既往の研究を整理し、レビューする作業が骨子となっています。例えば、博士課程の最初のターム(学期)でも、この作業が課せられ、例えば"conditional offer"と言って大学院課を仮登録の場合、ここで正規課程に入るか否かの篩分けが行われます。いわゆる学位論文の最初の章をレビューとして仕上げることができるか否かが、学位取得候補者(candidates)としての素養が試される第一関門です。
大量の文献や図書が読める理由は、最初の文献を丁寧に読んだ後、次からの類似の論文の内容を最初に読んだ論文と比較しながら、同一の内容(研究の材料、方法、結果、考察など)が否かを判別していく(verifyしていく)能力の有無を判定すると言っても過言ではないと思います。つまり、内容が重複すればスキップし、違う記述が見つかれば差額分をアップデートしていく、この知的な処理能力を入門段階で養うのです。
これが言わば、クリティカル・リーディング(critical reading)と呼ばれる学習技法です。日本では、スタディースキルズ(study skills)を意識した学校教育が欠落し、もっぱら学習内容=コンテンツ(contents)を重視した教育一点張りで来ています。実は、Googleのようなデータ検索を生業とする企業が生まれた背景も、欧米の高等教育には「学び方」の伝授を視野に据えた教育の風土があったからだと思います。そしてGoogleが誕生した時点で理論上、暗記学習も色褪せました。グローバルに見たら日本の大学教育(個々の学術研究でない)がレベルが低過ぎて参考にもならない・・とOECD諸国で酷評されたゆえんです。
しかし、である。私は指導している女子生徒から「文学作品の読み方と比べて違和感を感じますが、大学では先生から指導受けたように学びます。」と申し出られ、返す言葉に詰まってしまいました。なぜなら、彼女は学者でなくクリエータを志望していたからです。
私が伝授したcritical readingに過ちもありませんし、価値あるものです。彼女には大学で学びを継続して欲しいのです。しかし、同時に私に戸惑いも起こりました。その時、私は大学中退者(特に、早稲田大学など)の中に成功者が多い事実と、そうなる原因に考えが及んだからです。
学問に価値はあります。博士号を持ち、教授と呼ばれたら他人は皆、尊敬の眼差しを向けてくれることを身を持って知っています。しかし、それを良いことに「象牙の塔」へと逃げ込み、その立場に固執した時、人の成長は止まると実感しています。特に、経営者とか芸術家では価値を損ねるだろうなと思います。それを知ってか知らずか、多くの経営者や芸術家らが学窓を早めに退散するか、染まり切らないように手を打ってきたような気がするのです。
私は高校生には縁あれば大学に学んで欲しいと願っています。しかし、それは学ぶ権利を得、良き教師や学友など、恵まれた勉学環境に囲まれる利点からです。そして、学びの舞台として大学を活用し、各自が各自の目的と方法で研鑽し、最終的に願望を叶えて欲しいと祈るばかりです。
今日、英文ライティングを指導していて、クリエータとしての「感性」を磨くことを英語で的確に表現できなくて苦慮しました。日本でごく当たり前に使う「感性」という概念を的確に伝える英語表現が実はなかったからです。これは"critical reading"は価値あるが、全てでないことを示唆しています。とりわけ日本には西欧が備えていない価値観が温存されています。逆説的ですが、日本の真価を見極めるために一度、異質な世界に触れて欲しいものです(竹内)。

↑感性価値創造イニシアティブのロゴ
(経済産業省)
欧米の大学では大量の文献や図書の読書が課せられると言います。修士論文や博士論文の最初の章も実は、研究テーマに関する既往の研究を整理し、レビューする作業が骨子となっています。例えば、博士課程の最初のターム(学期)でも、この作業が課せられ、例えば"conditional offer"と言って大学院課を仮登録の場合、ここで正規課程に入るか否かの篩分けが行われます。いわゆる学位論文の最初の章をレビューとして仕上げることができるか否かが、学位取得候補者(candidates)としての素養が試される第一関門です。
大量の文献や図書が読める理由は、最初の文献を丁寧に読んだ後、次からの類似の論文の内容を最初に読んだ論文と比較しながら、同一の内容(研究の材料、方法、結果、考察など)が否かを判別していく(verifyしていく)能力の有無を判定すると言っても過言ではないと思います。つまり、内容が重複すればスキップし、違う記述が見つかれば差額分をアップデートしていく、この知的な処理能力を入門段階で養うのです。
これが言わば、クリティカル・リーディング(critical reading)と呼ばれる学習技法です。日本では、スタディースキルズ(study skills)を意識した学校教育が欠落し、もっぱら学習内容=コンテンツ(contents)を重視した教育一点張りで来ています。実は、Googleのようなデータ検索を生業とする企業が生まれた背景も、欧米の高等教育には「学び方」の伝授を視野に据えた教育の風土があったからだと思います。そしてGoogleが誕生した時点で理論上、暗記学習も色褪せました。グローバルに見たら日本の大学教育(個々の学術研究でない)がレベルが低過ぎて参考にもならない・・とOECD諸国で酷評されたゆえんです。
しかし、である。私は指導している女子生徒から「文学作品の読み方と比べて違和感を感じますが、大学では先生から指導受けたように学びます。」と申し出られ、返す言葉に詰まってしまいました。なぜなら、彼女は学者でなくクリエータを志望していたからです。
私が伝授したcritical readingに過ちもありませんし、価値あるものです。彼女には大学で学びを継続して欲しいのです。しかし、同時に私に戸惑いも起こりました。その時、私は大学中退者(特に、早稲田大学など)の中に成功者が多い事実と、そうなる原因に考えが及んだからです。
学問に価値はあります。博士号を持ち、教授と呼ばれたら他人は皆、尊敬の眼差しを向けてくれることを身を持って知っています。しかし、それを良いことに「象牙の塔」へと逃げ込み、その立場に固執した時、人の成長は止まると実感しています。特に、経営者とか芸術家では価値を損ねるだろうなと思います。それを知ってか知らずか、多くの経営者や芸術家らが学窓を早めに退散するか、染まり切らないように手を打ってきたような気がするのです。
私は高校生には縁あれば大学に学んで欲しいと願っています。しかし、それは学ぶ権利を得、良き教師や学友など、恵まれた勉学環境に囲まれる利点からです。そして、学びの舞台として大学を活用し、各自が各自の目的と方法で研鑽し、最終的に願望を叶えて欲しいと祈るばかりです。
今日、英文ライティングを指導していて、クリエータとしての「感性」を磨くことを英語で的確に表現できなくて苦慮しました。日本でごく当たり前に使う「感性」という概念を的確に伝える英語表現が実はなかったからです。これは"critical reading"は価値あるが、全てでないことを示唆しています。とりわけ日本には西欧が備えていない価値観が温存されています。逆説的ですが、日本の真価を見極めるために一度、異質な世界に触れて欲しいものです(竹内)。

↑感性価値創造イニシアティブのロゴ
(経済産業省)