個人が集合した組織や社会で、個人同士が有機的に繋がっていないのが、現代の日本社会だと思う。サッカーで例えれば、パスボールが上手く繋がらず皆、勝手に単発で蹴るだけに終始している状態。その病根は、私は元を辿れば、国民全員が通ってきた道である学校教育の中に潜んでいたと思える。

これに気づいたキッカケは、ある生物観察会の場である。子供が採集した生き物を子供が大人に「コレ、何て生き物?」と名前を聞きに行く。そして大人から名前を教わる。それでオシマイなのだ。


 ↑野外で小動物を採集したバットの例

ある生き物の名前が教わったとして、だから一体、何なのだろうか? なるほど名前が分かれば、詳しいことを図鑑やネットで知ることができる・・はず。だが、そうでもないらしい。ある生き物の名前を教わると安心してしまう。その軽いメンタリティ・・。相手は子供だから、批判は酷であるが、大人も子供も、そのコトに何も疑問を感じない状態にある現実に、私は危うさを感じている。

なぜ、どうして日本人はこうまで「考えない」状態になってしまっても平気でいられるのだろう? 生き物の名前を誰かに聞いて(メモもせず)名前があることを知ったことで、なぜ満足していられるのだろうか? これは完全に「思考停止」していることを意味すると、私には思える。

問うべきは生き物の名前なんかではなく、例えば、次のような論点であろう:
・この生き物は、どういう生き物の仲間なのだろうか?
・この生き物は、どういう餌を食べているのだろうか?
・この生き物は、どういう役割を果たしているのだろうか?
云々。

目の前に来たボールを闇雲に蹴っただけでは、有意義なゲーム展開にはなりません。それと同じです。パスを回すなり、機を見てシュートを放つなりして初めて価値が生まれます。だから、学校教育の尺度である成績評価は「場当たり主義」であり、その努力は社会が本体、求めているはずの「連携プレイ」には昇華しないのです。教室に40人の生徒が集まってきて黙って話を聞き、そこで全員が満点を採ったとしても、それはホンモノの生きた学びの成果ではありません。

なぜ簡単なことなのに、見破れなかったのか? それは散々、単発のシュート練習を持って、サッカーの試合だと勘違いさせる「すり替え(代償行為)」が行われたからだと私は見ています(竹内)。