ゆえに問題練習して採点することに価値がある? そうではない。まだ答えのない問いを掲げ、最適解を探し出す探究プロセスにこそ「真の学び」がある。
学校では正解こそが善とされる。しかし、学問としての教育学では半ば常識でもある「満点とったからといって学んだことにならない。」という"逆説"が現場教員にまで流布し、その真意が浸透しているとは、お世辞にも言えないようだ。
人工知能を研究したロジャー・シャンクの言葉に「失敗主導の学び」がある。誰もが知っているはずの「失敗は成功のモト」という古い格言を学問的に裏づけた概念だ。なのに、正解さえしたら安心してしまうという"短絡"が肝心の「教員」間でも絶えない。いわんや「生徒」をや。このような惨状なら、生徒が壊れていかないことの方が不思議であり、"壊れてないかのように見えている"生徒の方だって私は内心、怪しいと思っている(科学的にそう洞察されるのが当然であると、科学者の端くれである私には推論できる)。
大阪校には、間違えることを極度に恐れる生徒や悩み考えることすら嫌悪する生徒が入学して来る。では、上手く行っているように見える学校や家庭、会社はホントに実在するのだろうか? 良く見えるように偽装しているのではあるまいか? 時折、世間を騒がす「粉飾決算」はレッキとした背信行為であり罪に問われる犯罪であるが、会計の収支決算の数値を誤魔化さないだけで、偽装された教育、愛情、友情、職務など、周囲を注意深く見渡してみると、随所にあるような気もするが、どうなのだろうか?
どうか一度、胸に手を当てて、生まれたばかりの子供に帰った想念を持って正直に感じてみると良いかも知れない。新聞紙面を賑わす記事で「醜聞」ばかり目につくように、「美談」はザラにはない。注意しないと「美談」ですら、故意に創作されたケースだってあり得る。そんな薄汚れた社会に我々は生き、そして子どもを育てていくことのリスクを肌で感じ取るべきであろう。
そして、改めて問うべきである。誰が、この状況を変えて行けるのか? スーパーマン? ウルトラマン? それともエヴァ? ヒーローはシンボルとして多く生まれ、去って行った。結局、私たち今を生きる人の一人ひとりが自分自身の、そして社会の「主人公」となって各自に充てがわれた縁ある「持ち場」で、努力していくより他に何があると言うのだろうか? 我々の生はそのために戴き、多くの動植物の生命を引き換えてし、使命を終えて次代へ繋いでいく。
これは、「当たり前過ぎる」結論に聞こえることだろう。しかし、その当たり前が実践されなくなっている現実があることも、また現実である。それでは、いったい誰が我々に催眠術をかけたのか?
私は皮肉にも、国民全員がすべからく一度は通過する「学校」を疑っている。学校が国民に催眠術を掛けたのだ。よく術師がペンダントのようなモノを振り子のように左右に動かし、それを凝視すると催眠術に掛かってしまうシーンを、あなたも見たことがあるだろう。あれだ。私は他所見していた子供だったから催眠術の餌食にならず免れたが、1人取り残されるのも辛かった。周りに理解し合える仲間がいないのだから・・。私の言動を「洗脳」と呼ぶ者もいるが、逆洗脳、すなわち洗脳を解いているつもりである(大前研一氏、苫米地英人氏、天外伺朗氏ら有力な著名人と並ぶべくもないが、私も同じ志を持ち戦線に立っていると自認したい)。
催眠術は、試験の成績や成績、席次、学校のランキング、勤務先の規模や給料まで・・様々な(本人ではなく)「他人の目」がある。他人は一切、何も責任負ってくれないにも拘わらずだ。それは子供が使う「(おもちゃ)みんなもっている」という「みんな」と大差ないではないか? 実体がない相手に極度に怯えてしまい人間であることの尊厳すら明け渡してしまうのだ。
正気に戻す手がない訳ではない。日本社会にイチバン欠けていることは「問う」ことであろう。もともと「和を尊び」腰が引けた国民性から乏しかった素養に加え、「黙って聞いている姿勢を尊し」と勘違いさせてきた「(為政者に)都合良い」教育が、それを助長させた。「問うこと」から逃げてきた人々が、勤勉ながら「考えること」も疎う奴隷性を仕立ててていった。大本を正せば「泣く子と地頭には勝てぬ」辺りの集団意識まで、歴史を遡る必要があるのかも知れない。
苦手(科目)の対処法に対する日本と海外の感覚のズレを、ここで指摘しておこう。ほぼ例外なく日本の教師は「不得意を克服しよう。」と通信簿に書くが、世界標準の教育は「得意科目を伸ばそう。不得意なものは人と協力しよう。」なのだ。日本の「和を尊ぶ」精神と矛盾しないか? すると日本人の「和を尊ぶ」という決まり文句が虚実だった・・という論理破綻と私は見破る。
私は若い頃、催眠術に掛からなかった。そう日本社会の「集団催眠術」である。だから都庁職員も辞め、国立高専の教授の身分も捨ててきた。自分の志に沿った教育を見つけ、自由に実践したかったからなのだ。それで何人かの"かつての私のような生徒"を見つけて、支援できれば私は満足なのだから・・他人からの視線でなく自分の想いに忠実であったのだ。
「問うこと」の大切さは、私の30歳代の頃、あるアメリカ人の大学院生から不意に問われたことがキッカケで私の中に熟成されていた。その頃の記事の抜粋を掲載する。『都政新報』という都庁と特別区の職員が読者層となるローカルな新聞に寄せた記事『行政と科学のはざまで-なぜ、公務員が「研究」をするのか』(1992年3月)の頃で、振り返ると私自身の国際化元年であった。

彼、シェルビン君に問われたことで、今の私があると言っても過言ではないと思っている。その意味で、"国際化"の流れにも「呪いを解く」効用がある。詳しくは、また別の機会に(竹内)。
学校では正解こそが善とされる。しかし、学問としての教育学では半ば常識でもある「満点とったからといって学んだことにならない。」という"逆説"が現場教員にまで流布し、その真意が浸透しているとは、お世辞にも言えないようだ。
人工知能を研究したロジャー・シャンクの言葉に「失敗主導の学び」がある。誰もが知っているはずの「失敗は成功のモト」という古い格言を学問的に裏づけた概念だ。なのに、正解さえしたら安心してしまうという"短絡"が肝心の「教員」間でも絶えない。いわんや「生徒」をや。このような惨状なら、生徒が壊れていかないことの方が不思議であり、"壊れてないかのように見えている"生徒の方だって私は内心、怪しいと思っている(科学的にそう洞察されるのが当然であると、科学者の端くれである私には推論できる)。
大阪校には、間違えることを極度に恐れる生徒や悩み考えることすら嫌悪する生徒が入学して来る。では、上手く行っているように見える学校や家庭、会社はホントに実在するのだろうか? 良く見えるように偽装しているのではあるまいか? 時折、世間を騒がす「粉飾決算」はレッキとした背信行為であり罪に問われる犯罪であるが、会計の収支決算の数値を誤魔化さないだけで、偽装された教育、愛情、友情、職務など、周囲を注意深く見渡してみると、随所にあるような気もするが、どうなのだろうか?
どうか一度、胸に手を当てて、生まれたばかりの子供に帰った想念を持って正直に感じてみると良いかも知れない。新聞紙面を賑わす記事で「醜聞」ばかり目につくように、「美談」はザラにはない。注意しないと「美談」ですら、故意に創作されたケースだってあり得る。そんな薄汚れた社会に我々は生き、そして子どもを育てていくことのリスクを肌で感じ取るべきであろう。
そして、改めて問うべきである。誰が、この状況を変えて行けるのか? スーパーマン? ウルトラマン? それともエヴァ? ヒーローはシンボルとして多く生まれ、去って行った。結局、私たち今を生きる人の一人ひとりが自分自身の、そして社会の「主人公」となって各自に充てがわれた縁ある「持ち場」で、努力していくより他に何があると言うのだろうか? 我々の生はそのために戴き、多くの動植物の生命を引き換えてし、使命を終えて次代へ繋いでいく。
これは、「当たり前過ぎる」結論に聞こえることだろう。しかし、その当たり前が実践されなくなっている現実があることも、また現実である。それでは、いったい誰が我々に催眠術をかけたのか?
私は皮肉にも、国民全員がすべからく一度は通過する「学校」を疑っている。学校が国民に催眠術を掛けたのだ。よく術師がペンダントのようなモノを振り子のように左右に動かし、それを凝視すると催眠術に掛かってしまうシーンを、あなたも見たことがあるだろう。あれだ。私は他所見していた子供だったから催眠術の餌食にならず免れたが、1人取り残されるのも辛かった。周りに理解し合える仲間がいないのだから・・。私の言動を「洗脳」と呼ぶ者もいるが、逆洗脳、すなわち洗脳を解いているつもりである(大前研一氏、苫米地英人氏、天外伺朗氏ら有力な著名人と並ぶべくもないが、私も同じ志を持ち戦線に立っていると自認したい)。
催眠術は、試験の成績や成績、席次、学校のランキング、勤務先の規模や給料まで・・様々な(本人ではなく)「他人の目」がある。他人は一切、何も責任負ってくれないにも拘わらずだ。それは子供が使う「(おもちゃ)みんなもっている」という「みんな」と大差ないではないか? 実体がない相手に極度に怯えてしまい人間であることの尊厳すら明け渡してしまうのだ。
正気に戻す手がない訳ではない。日本社会にイチバン欠けていることは「問う」ことであろう。もともと「和を尊び」腰が引けた国民性から乏しかった素養に加え、「黙って聞いている姿勢を尊し」と勘違いさせてきた「(為政者に)都合良い」教育が、それを助長させた。「問うこと」から逃げてきた人々が、勤勉ながら「考えること」も疎う奴隷性を仕立ててていった。大本を正せば「泣く子と地頭には勝てぬ」辺りの集団意識まで、歴史を遡る必要があるのかも知れない。
苦手(科目)の対処法に対する日本と海外の感覚のズレを、ここで指摘しておこう。ほぼ例外なく日本の教師は「不得意を克服しよう。」と通信簿に書くが、世界標準の教育は「得意科目を伸ばそう。不得意なものは人と協力しよう。」なのだ。日本の「和を尊ぶ」精神と矛盾しないか? すると日本人の「和を尊ぶ」という決まり文句が虚実だった・・という論理破綻と私は見破る。
私は若い頃、催眠術に掛からなかった。そう日本社会の「集団催眠術」である。だから都庁職員も辞め、国立高専の教授の身分も捨ててきた。自分の志に沿った教育を見つけ、自由に実践したかったからなのだ。それで何人かの"かつての私のような生徒"を見つけて、支援できれば私は満足なのだから・・他人からの視線でなく自分の想いに忠実であったのだ。
「問うこと」の大切さは、私の30歳代の頃、あるアメリカ人の大学院生から不意に問われたことがキッカケで私の中に熟成されていた。その頃の記事の抜粋を掲載する。『都政新報』という都庁と特別区の職員が読者層となるローカルな新聞に寄せた記事『行政と科学のはざまで-なぜ、公務員が「研究」をするのか』(1992年3月)の頃で、振り返ると私自身の国際化元年であった。

彼、シェルビン君に問われたことで、今の私があると言っても過言ではないと思っている。その意味で、"国際化"の流れにも「呪いを解く」効用がある。詳しくは、また別の機会に(竹内)。