教育って「伝承」なのでしょうか? もっとハッキリ言えば「伝言ゲーム」することなのでしょうか? でも、教員から生徒へと”教科内容”のコピーを「複製」していくことが教育だと盲信してはいないでしょうか? 伝えるべき肝心の中身は、差し替えできる”教科内容”でなく普遍的な”獲得方法”だと信じます。
途上国援助の分野での有名な逸話で、しばしば次のような二者択一の問いが発せられます:
_魚与えますか? それとも魚釣りを教えますか?
望ましい選択肢は、目先を満たす前者ではなく、持続発展性のある後者に決まっています。しかし、殊、学校教育となると(教員を長くしてきたプロほど)呪縛から逃れることができない印象です。私の目からはアナログな伝言(劣化を免れ得ない複製行為)など、とっくの昔に破綻しているのに・・です。まだまだ古臭い「抜け殻」にしがみついている。それが、次世代の命運さえ決しかねない教育分野の惨状です。
私は人間は「自ら探究して発見する」ことでしかホントの学びは実現できない・・とさえ思っています。だから皮肉にも「学校以外の場」で体験した学びが、有為な人材を育んできたと考えているのです。私が担当しているコースは、これまでなら「学校以外の場」で発現した学びを、意図的に「学校」内「学校」である大阪校の"スーパーサイエンスコース"に「新しい教育への試金石」として導入する試みを進めています。
傍目には放任いるように見える私の教室で、生徒が「生きる力」を育てていくのは教育デザインが込められているからです。恐らく吉田松蔭の松下村塾にも似た設計思想があったはずです。私は答えを知っていて取り組んでいるのではありません。運転免許とりたての初心者ならハンドルに遊びがあって、車のタイヤがどの方向を向いているのかすら判別つきません。でも、少し前進したなら車の微妙な初期動作を感知し、軌道修正ができます。これと同じカラクリです。それを人生の先輩が人生の後輩へバトンを渡していく行為を、私は教育と捉えます。これからの時代、全ての国民が参画していくべき事業です。
アナログの情報伝言など代々、情報品位が劣化していくだけです。教える側の学びにも反映しません。しかし、学び方さえ習得できれば勝手に自力成長を始めます。その姿を見れば、教える側にも新たな発見と成長をもたらします。これが、人材を育む「仕掛け」の骨子だと考えています。
ちなみに、私は自分で発見した気づき方の入り口だけ伝えるようにしています。ごく稀に人から引き継いだ内容も伝えることがありますが、それは私の中でずっと引っかかっていたような問題だから告げるのです。ある意味、起点が他者であっても自分の中に根づいて同化してしまっているわけです。その意味で、私は単なる伝言はしていません。自分自身に問い続けた内容でないと、相手の心の奥へ届け、相手を動かすだけの「パワー」を持たないからです。
下の画像は、私が前任校で実施した市民セミナー『英語再入門_自分で作る英文法』の一コマです。私は以前、英語で書いた修士論文を英語ネィティブにチェックして貰った際、海洋細菌の分類群ごとに the Vibrio groupとか、the Pseudomonas groupとか、theが付せられた理由が長い間、気になっていました。それがある日、全体を分割し、その個々の分割された断片を指す場合、分割された各パーツごとtheを付す・・という法則性(ルール)を気づいて長年の疑問が氷解したのです(※生物の学名がラテン語という外来語で表記する命名規約があるため英文で生物名はイタリック表示となる)。

図は時間軸の帯を3分割すれば、past/present/futureの個々にtheがつく、東西南北の方向を示す十字を4分割すれば、north/south/east/westの各々にtheが付せられる・・という案配です。
この世に複数個が存在し得る systemやprocessの語にも適用され、太陽系ならthe Solar system、活性汚泥法(廃水処理の一つ)ならthe activated sludge processとtheがつくと考えれば間違いありません。
このような英文が持つルールを発見するコツは、一つ見つけると次も見つけ出せます。全て探し出して教える必要などありません。それどことか全て教えてしまったら、見つける楽しみを奪うようなものです。第一、自分で見つける喜びを知ってしまったら最後、何人も阻止することなどできません。「一を知って、十を知る」は教育の極意で、今の教育は「十を教えて、一も残らないどころか、ゼロ、酷いとマイナス五に下げてしまう」愚行だと、私には思えます。
TEDの最多視聴記録を誇るケン・ロビンソン(教育家)は「学校教育は創造性を殺してしまっている」と指摘しているが、学校は「教える」という複製行為を強要し、自分で発見させていくコツとそれに伴う成長の喜びを引き出さないのだから至極、当然な指摘だと言えます(竹内)。
途上国援助の分野での有名な逸話で、しばしば次のような二者択一の問いが発せられます:
_魚与えますか? それとも魚釣りを教えますか?
望ましい選択肢は、目先を満たす前者ではなく、持続発展性のある後者に決まっています。しかし、殊、学校教育となると(教員を長くしてきたプロほど)呪縛から逃れることができない印象です。私の目からはアナログな伝言(劣化を免れ得ない複製行為)など、とっくの昔に破綻しているのに・・です。まだまだ古臭い「抜け殻」にしがみついている。それが、次世代の命運さえ決しかねない教育分野の惨状です。
私は人間は「自ら探究して発見する」ことでしかホントの学びは実現できない・・とさえ思っています。だから皮肉にも「学校以外の場」で体験した学びが、有為な人材を育んできたと考えているのです。私が担当しているコースは、これまでなら「学校以外の場」で発現した学びを、意図的に「学校」内「学校」である大阪校の"スーパーサイエンスコース"に「新しい教育への試金石」として導入する試みを進めています。
傍目には放任いるように見える私の教室で、生徒が「生きる力」を育てていくのは教育デザインが込められているからです。恐らく吉田松蔭の松下村塾にも似た設計思想があったはずです。私は答えを知っていて取り組んでいるのではありません。運転免許とりたての初心者ならハンドルに遊びがあって、車のタイヤがどの方向を向いているのかすら判別つきません。でも、少し前進したなら車の微妙な初期動作を感知し、軌道修正ができます。これと同じカラクリです。それを人生の先輩が人生の後輩へバトンを渡していく行為を、私は教育と捉えます。これからの時代、全ての国民が参画していくべき事業です。
アナログの情報伝言など代々、情報品位が劣化していくだけです。教える側の学びにも反映しません。しかし、学び方さえ習得できれば勝手に自力成長を始めます。その姿を見れば、教える側にも新たな発見と成長をもたらします。これが、人材を育む「仕掛け」の骨子だと考えています。
ちなみに、私は自分で発見した気づき方の入り口だけ伝えるようにしています。ごく稀に人から引き継いだ内容も伝えることがありますが、それは私の中でずっと引っかかっていたような問題だから告げるのです。ある意味、起点が他者であっても自分の中に根づいて同化してしまっているわけです。その意味で、私は単なる伝言はしていません。自分自身に問い続けた内容でないと、相手の心の奥へ届け、相手を動かすだけの「パワー」を持たないからです。
下の画像は、私が前任校で実施した市民セミナー『英語再入門_自分で作る英文法』の一コマです。私は以前、英語で書いた修士論文を英語ネィティブにチェックして貰った際、海洋細菌の分類群ごとに the Vibrio groupとか、the Pseudomonas groupとか、theが付せられた理由が長い間、気になっていました。それがある日、全体を分割し、その個々の分割された断片を指す場合、分割された各パーツごとtheを付す・・という法則性(ルール)を気づいて長年の疑問が氷解したのです(※生物の学名がラテン語という外来語で表記する命名規約があるため英文で生物名はイタリック表示となる)。

図は時間軸の帯を3分割すれば、past/present/futureの個々にtheがつく、東西南北の方向を示す十字を4分割すれば、north/south/east/westの各々にtheが付せられる・・という案配です。
この世に複数個が存在し得る systemやprocessの語にも適用され、太陽系ならthe Solar system、活性汚泥法(廃水処理の一つ)ならthe activated sludge processとtheがつくと考えれば間違いありません。
このような英文が持つルールを発見するコツは、一つ見つけると次も見つけ出せます。全て探し出して教える必要などありません。それどことか全て教えてしまったら、見つける楽しみを奪うようなものです。第一、自分で見つける喜びを知ってしまったら最後、何人も阻止することなどできません。「一を知って、十を知る」は教育の極意で、今の教育は「十を教えて、一も残らないどころか、ゼロ、酷いとマイナス五に下げてしまう」愚行だと、私には思えます。
TEDの最多視聴記録を誇るケン・ロビンソン(教育家)は「学校教育は創造性を殺してしまっている」と指摘しているが、学校は「教える」という複製行為を強要し、自分で発見させていくコツとそれに伴う成長の喜びを引き出さないのだから至極、当然な指摘だと言えます(竹内)。