通信制高校には、全日制高校へ通っていたが心が壊れてしまった生徒たちが最後に残された道として来ることが多かった。が、最近の特徴として、中学生も保護者も事前予測して壊れる前に通信制を選んで来る例が散見されるように変わってきた。そこに、新しい潮流を感じている。
全日制に通って卒業したとしても、実は心が無傷でいられるかどうか定かでない。希望の大学へ合格したからと言って安心できない。なぜなら合格することがゴールだとして頑張ってきた例が多いからである。その間、我慢したことで感性が鈍化してしまう事例もあるし、燃え尽きてしまう事例もある。そもそも大学で学ぶという「目的」と、入試に合格するという「手段」とを履き違えてしまう過ちは決して少なくない。
一方、通信制高校へ避難して来たとて、「するべき我慢(=辛抱)」は早晩、身につけて行かなければ、長丁場の人生を「生き抜いていく底力」にならない。この「兼ね合い」も難しい。
時間に束縛されない自由度の高さから、特殊な才能を伸ばしつつ高卒資格を得たいような場合、通信制高校は前向きな選択肢になるだろう。そもそも普通の全日制高校では、絶え間なく授業が進行していく教室環境に否応なく身を置かねばならない仕組みとなっている。
以前、東南アジアからの同業者を東京都の出先機関で研修生として受け入れたことがあったが、朝から夕方まで、場長、課長補佐、係長などが交代で一方的な授業をする・・という学校形式を踏襲していたので、外国人は辟易とした様子で、実に気の毒でならなかった。結局、この定型的な学びスタイルが大方の日本人の抱く学校の「心象風景」なのだろう。
高級食材のフォアグラを得るよう過剰の餌をアヒルやガチョウに与え(強制給餌)、肝臓を肥大させるがごとく、グイグイと口に無理やり押し込むような詰め込み授業が頭の柔軟性を高め、感性を豊かにするとは思えない。そもそも、日本の学校教育の関係者は、隙間ができることを極端に嫌う。まるで沈黙が生じると不安に陥って、落ち着かなくなってしまう神経症のようだ。
生き物が栄養摂取する段階と細胞分裂する時期にズレがあるように、生徒を見ていると外から刺激を与えた後、それが効果を発揮して成長してくるのを「待つ時間」が必要と感じる。しかも、観察していくと、新たな変化は「行き」つ「戻り」つ「揺り戻し」含みで繰り返す印象がある。仕方ないのだろう。大半の日本人は小学校の頃からの「戸板のように流れるの授業」しか知らないのだから。
今、学び手に「変化が起こる」成果が学校に求められている。米国スタンフォード大学でもケリー・マクゴニガルが、「奇跡を生む」教育に挑戦している。私も当コースでは答えのない探究学習を通じ、コースの運営から生徒個人へのアドバイスまで、逐次的に工夫することを重ねて模索している。道なき道への挑戦は稚拙に見えるかも知れない。が、それだから生徒へ新しい学びが起こり、一生にわたり学び続ける力の熟成に繋がっていくはずだと確信している。たとえ暗中の「模索」でも、一歩ずつ前進して行けたのなら、それは「開発」に値するのだ(竹内)。

↑マクゴニガル『最高の自分を引き出す法』
(大和書房、2013)
全日制に通って卒業したとしても、実は心が無傷でいられるかどうか定かでない。希望の大学へ合格したからと言って安心できない。なぜなら合格することがゴールだとして頑張ってきた例が多いからである。その間、我慢したことで感性が鈍化してしまう事例もあるし、燃え尽きてしまう事例もある。そもそも大学で学ぶという「目的」と、入試に合格するという「手段」とを履き違えてしまう過ちは決して少なくない。
一方、通信制高校へ避難して来たとて、「するべき我慢(=辛抱)」は早晩、身につけて行かなければ、長丁場の人生を「生き抜いていく底力」にならない。この「兼ね合い」も難しい。
時間に束縛されない自由度の高さから、特殊な才能を伸ばしつつ高卒資格を得たいような場合、通信制高校は前向きな選択肢になるだろう。そもそも普通の全日制高校では、絶え間なく授業が進行していく教室環境に否応なく身を置かねばならない仕組みとなっている。
以前、東南アジアからの同業者を東京都の出先機関で研修生として受け入れたことがあったが、朝から夕方まで、場長、課長補佐、係長などが交代で一方的な授業をする・・という学校形式を踏襲していたので、外国人は辟易とした様子で、実に気の毒でならなかった。結局、この定型的な学びスタイルが大方の日本人の抱く学校の「心象風景」なのだろう。
高級食材のフォアグラを得るよう過剰の餌をアヒルやガチョウに与え(強制給餌)、肝臓を肥大させるがごとく、グイグイと口に無理やり押し込むような詰め込み授業が頭の柔軟性を高め、感性を豊かにするとは思えない。そもそも、日本の学校教育の関係者は、隙間ができることを極端に嫌う。まるで沈黙が生じると不安に陥って、落ち着かなくなってしまう神経症のようだ。
生き物が栄養摂取する段階と細胞分裂する時期にズレがあるように、生徒を見ていると外から刺激を与えた後、それが効果を発揮して成長してくるのを「待つ時間」が必要と感じる。しかも、観察していくと、新たな変化は「行き」つ「戻り」つ「揺り戻し」含みで繰り返す印象がある。仕方ないのだろう。大半の日本人は小学校の頃からの「戸板のように流れるの授業」しか知らないのだから。
今、学び手に「変化が起こる」成果が学校に求められている。米国スタンフォード大学でもケリー・マクゴニガルが、「奇跡を生む」教育に挑戦している。私も当コースでは答えのない探究学習を通じ、コースの運営から生徒個人へのアドバイスまで、逐次的に工夫することを重ねて模索している。道なき道への挑戦は稚拙に見えるかも知れない。が、それだから生徒へ新しい学びが起こり、一生にわたり学び続ける力の熟成に繋がっていくはずだと確信している。たとえ暗中の「模索」でも、一歩ずつ前進して行けたのなら、それは「開発」に値するのだ(竹内)。

↑マクゴニガル『最高の自分を引き出す法』
(大和書房、2013)