発達年齢と興味が向かう対象との間には、妥当な組み合わせがある。例えば、小学生なら野球に夢中になる野球少年があるように、マンガに夢中になるマンガ少年もあるだろう。私の場合、絵を描くのが好きだったので、周囲の友人からの影響もあって私の興味はマンガ創作へ向いた。
小学校の高学年で当時、石森章太郎(当時のペンネーム)が秋田書店から刊行された『漫画家入門』(1965年)と『続・漫画家入門』(1966年)は本格的な大人向けの、しかし小学校高学年なら読める専門書の風格があった。私もその年代に上下巻を手にし、飽きるほど熟読していた。
本格的なストーリーの構想術からデビューまでの経緯まで、私は彼の著書を通じて真摯な「人としての生き方」そのものを学び取った気がする。それほど本格的な、情熱溢れる人生のガイドブックだったと言える。当時の著者は、それほどのヒット作に恵まれていない。だからこそ、まるで研究者のように、自作をも題材に解題する執筆活動にエネルギーを割けたのかも知れない。
今にして振り返ると、私はこの双書から受け留めた生き方を対象分野を変えて実践してきたようにも思える。石森章太郎は単なる製作者であるだけでなく企画もし、探究もし、執筆もした。彼の才能と時代が石森を漫画家に育てたのであって、研究者や学者になれる才覚があったのだと私は密かに感じている。

私自身、中学入学と同時に科学に興味が移った。もともとはマンガのネタ探しであったが、自由研究にはマンガ制作に匹敵する創造意欲を刺激する要素があった。ひいて違いがあるとしたら、片や空想の産物、片や客観データを集めて構築していく世界。私には科学研究の方が客観データに基いて成果を披露し、論文という成果を積み上げていく手堅い世界で生きる方が堅実に見え、科学を志した。
無意識のうちに石森の感化を受けて、都庁時代に一通りの論文形式(原著論文、総説、解説、連載講座など)を発表し、かつ各々の自著を解説する手引書まで職場研修用に執筆し、後輩を指導した。今にして思うと、実に風変わりな公務員だったんだと感じるし、その影響は今なお引き摺っているのは間違いないだろう。何のことはない。私はマンガを描く変わりに科学の論文や記事を書くようになっただけのことだし、私がしてきたことは石森の『漫画家入門』の双書を影響を受け、微生物の観察・実験マニュアル『エアレーションタンクの微生物-検鏡と培養の手引-』(日本下水道協会刊)で、その内容の一部は公定法『下水試験方法』(1997年版)に組み込まれた。私自身、石森の著作の影響をこんなカタチで受けていたと気づいたのは最近のことである(竹内)。
小学校の高学年で当時、石森章太郎(当時のペンネーム)が秋田書店から刊行された『漫画家入門』(1965年)と『続・漫画家入門』(1966年)は本格的な大人向けの、しかし小学校高学年なら読める専門書の風格があった。私もその年代に上下巻を手にし、飽きるほど熟読していた。
本格的なストーリーの構想術からデビューまでの経緯まで、私は彼の著書を通じて真摯な「人としての生き方」そのものを学び取った気がする。それほど本格的な、情熱溢れる人生のガイドブックだったと言える。当時の著者は、それほどのヒット作に恵まれていない。だからこそ、まるで研究者のように、自作をも題材に解題する執筆活動にエネルギーを割けたのかも知れない。
今にして振り返ると、私はこの双書から受け留めた生き方を対象分野を変えて実践してきたようにも思える。石森章太郎は単なる製作者であるだけでなく企画もし、探究もし、執筆もした。彼の才能と時代が石森を漫画家に育てたのであって、研究者や学者になれる才覚があったのだと私は密かに感じている。

私自身、中学入学と同時に科学に興味が移った。もともとはマンガのネタ探しであったが、自由研究にはマンガ制作に匹敵する創造意欲を刺激する要素があった。ひいて違いがあるとしたら、片や空想の産物、片や客観データを集めて構築していく世界。私には科学研究の方が客観データに基いて成果を披露し、論文という成果を積み上げていく手堅い世界で生きる方が堅実に見え、科学を志した。
無意識のうちに石森の感化を受けて、都庁時代に一通りの論文形式(原著論文、総説、解説、連載講座など)を発表し、かつ各々の自著を解説する手引書まで職場研修用に執筆し、後輩を指導した。今にして思うと、実に風変わりな公務員だったんだと感じるし、その影響は今なお引き摺っているのは間違いないだろう。何のことはない。私はマンガを描く変わりに科学の論文や記事を書くようになっただけのことだし、私がしてきたことは石森の『漫画家入門』の双書を影響を受け、微生物の観察・実験マニュアル『エアレーションタンクの微生物-検鏡と培養の手引-』(日本下水道協会刊)で、その内容の一部は公定法『下水試験方法』(1997年版)に組み込まれた。私自身、石森の著作の影響をこんなカタチで受けていたと気づいたのは最近のことである(竹内)。