日本で「AO入試」と言うと、「学力試験を課さないラクな入試」と受けとられがちである。進路指導の担当者もそう説明することがある。AOは"Admissions Office"の略であるが、日本の学校には「入学適性」を判断するという概念もなければ、「入学業務」専用の事務室がないからやむを得ない。
学校と学生との「マッチング」を診断するのが、Admissions Officeが果たす使命で、作業を一元化し経験を積むようにしている。英語圏では人材の流動性が日本より高いので随時、入学が受付けられている。よって一斉試験の代わりに適宜、個別判断する必要性があることが背景にあったと思われる。
大学入試もこれに準じ、英国の場合、共通試験GCSEやAS/Aレベル試験(長文論述解答を加点法で帯で評価される)の結果に応じ、UCAS(入試事務をする団体)出願できる。そのUCASも出願が楽なように学生が設けたのが始まりだ。国が学生を一方的に選ぶために設けた官製の”関所”ではない。
欧米社会では、面接やエッセイ(これも随想でなく、理論立った論説文)、推薦状がモノを言う。日本人の感覚からしたら不正を招く隙だらけのシステムに見えようが、仮に不正して入学しても辛い思いをするのは本人だから「不正する」意味がない・・という考え方が根底にある。
欧米では自分の「人となりが表現」でき、他人との「信頼関係を築く」ように生きることを学ぶ。間違えてもペーパー試験の点数で機械的に合否判定することが「客観的」だと考えるメンタリティーはない。面接では「入学させたい」が基準で適合性の判断を下す習わしになっている。つまり欧米は「人」が判断し、日本は「点数」に合否判定させておき、人が責任回避している。
なぜ「数字」なんかに任せて入学させた「学生」を教えることができるのか、私は理解に苦しむ。人を見抜く眼力も育たず、人を育てる胆力も育ちまい。その点、通信制高校は生徒を面談した上で入学許可しているので、欧米社会のシステムに遥かに近い。日本の学校教育しか知らない人は目を塞がず、こういう世界標準の教育事情を知って欲しい。
そうしたら私が「AO入試」の価値を最大点に評価して「探究学習」に力を注ぐ理由がわかるだろう。「探究学習」に取り組み、「AO入試」で大学へ行くことで、大学入学後の伸び代が期待できるのだ。合格がAO入試の結果でも、何も引け目を感じる理由などない。意欲と能力では、私は前者に重きを置く。なぜなら前者さえあれば、後者の方は後からでも補充できるからなのだ。
ただし、意欲の湧かない、動機のない者を応援することは何人たりとも難しい。水を飲みたくない馬に水を飲ませることはできない・・のことわざ通りである。日本社会は、その意欲涵養や信頼形成より、ある種の脅しで「バスに乗り遅れないよう」人間を動かしてきた社会だと思う。動機づけの工夫は教員の役割だが、日本の若者には広く外界へ目を開いて欲しいものだ(竹内)。

↑英国の某大学の学部入学受付けサイト
学校と学生との「マッチング」を診断するのが、Admissions Officeが果たす使命で、作業を一元化し経験を積むようにしている。英語圏では人材の流動性が日本より高いので随時、入学が受付けられている。よって一斉試験の代わりに適宜、個別判断する必要性があることが背景にあったと思われる。
大学入試もこれに準じ、英国の場合、共通試験GCSEやAS/Aレベル試験(長文論述解答を加点法で帯で評価される)の結果に応じ、UCAS(入試事務をする団体)出願できる。そのUCASも出願が楽なように学生が設けたのが始まりだ。国が学生を一方的に選ぶために設けた官製の”関所”ではない。
欧米社会では、面接やエッセイ(これも随想でなく、理論立った論説文)、推薦状がモノを言う。日本人の感覚からしたら不正を招く隙だらけのシステムに見えようが、仮に不正して入学しても辛い思いをするのは本人だから「不正する」意味がない・・という考え方が根底にある。
欧米では自分の「人となりが表現」でき、他人との「信頼関係を築く」ように生きることを学ぶ。間違えてもペーパー試験の点数で機械的に合否判定することが「客観的」だと考えるメンタリティーはない。面接では「入学させたい」が基準で適合性の判断を下す習わしになっている。つまり欧米は「人」が判断し、日本は「点数」に合否判定させておき、人が責任回避している。
なぜ「数字」なんかに任せて入学させた「学生」を教えることができるのか、私は理解に苦しむ。人を見抜く眼力も育たず、人を育てる胆力も育ちまい。その点、通信制高校は生徒を面談した上で入学許可しているので、欧米社会のシステムに遥かに近い。日本の学校教育しか知らない人は目を塞がず、こういう世界標準の教育事情を知って欲しい。
そうしたら私が「AO入試」の価値を最大点に評価して「探究学習」に力を注ぐ理由がわかるだろう。「探究学習」に取り組み、「AO入試」で大学へ行くことで、大学入学後の伸び代が期待できるのだ。合格がAO入試の結果でも、何も引け目を感じる理由などない。意欲と能力では、私は前者に重きを置く。なぜなら前者さえあれば、後者の方は後からでも補充できるからなのだ。
ただし、意欲の湧かない、動機のない者を応援することは何人たりとも難しい。水を飲みたくない馬に水を飲ませることはできない・・のことわざ通りである。日本社会は、その意欲涵養や信頼形成より、ある種の脅しで「バスに乗り遅れないよう」人間を動かしてきた社会だと思う。動機づけの工夫は教員の役割だが、日本の若者には広く外界へ目を開いて欲しいものだ(竹内)。

↑英国の某大学の学部入学受付けサイト