学校や教員は「勉強しろ」と急き立てる。生徒も進学や就職の時期となると、乗り遅れないよう突撃する。おかしくないだろうか? 人生は田植えでも、物真似ゲームでもあるまいし。

でも、ホントなら学校や教員は「勉強した先の世界」を見せてあげるべき・・ではないだろうか?

私は今朝、その趣旨からスクーリング授業1限目「特活②」で、昨日の通学コースの話題を紹介した。

題して『変わる英語の学び方』。私が16歳でパーマー博士の遺言に出会って、ごく最近までのドラマ。
最後は、まさに昨日、私の英語表現の質問に対し英国の友人から受け取ったメールを紹介したのだ。
言うまでもなく、英語が実用レベルで使えたなら、自由自在に英語のネイティブ話者へ質問ができる。



私は「勉強したら将来、どうなれるのか」を学校で教わったためしがない。でも、そんな体験を、私はしたかった。だから、そういう趣旨の授業にするべく今朝、私は挑戦してみたのだ。人は、自分がされて嫌な行為は封じる一方、自分がして欲しい行為は率先して行うべきではないのか?

誠心誠意、まごころを込めてみても、どれだけの人に、何処まで届いたものか解らない。ただ言えるのは、少なからぬ生徒は学校という空気に触れている間に目の輝きを失い、頭脳は硬直化していく。

苫米地英人氏が用いる「洗脳」という言葉が過激なようで意外と、シックリと行くのかも知れない。果たして学校や教員が、こんな程度でも構わないと言うのだろうか? この国は・・そこに住む人々は(竹内)・・

付記:
冒頭で、「田植え」や「物真似」を喩えに出したことに他意はありません。「田植え」に関しては、不耕起栽培や稲作革命(SRI農法)には、敢えて悪条件に晒し「生き物」のポテンシャルを引き出す意味で「教育」に繋がる示唆に富んでいますし、「物真似」芸もコロッケさんの「新境地」を切り拓く開拓者精神に感銘を受け、コンサートへ行ったほどです。

学校が、人が相手なのに「均一」製品の生産現場みたくなってしまいがちな構造でいるのは非常に残念なことです。そこに私は「教育の設計思想」を欠いているように感じている次第です。