あした俺は産まれ変わる。ワクワクしてまるで眠れる気がしない。この暗い夜が明けた時、俺は転身するのだ。身体が球のように丸くなって、全身を毛が覆い、爪が弧を描くように鋭くなり、尾が生えて、四肢で体重を支えるようになる。俺は、明日猫になる。文字、言葉、教育、納税、勤労、うわべ笑い、揶揄、駆け引き、嘘、年賀状、左遷、堕胎、結納、葬式といった煩わしさも無くただ俺の感覚、力だけで渡ってゆく単純明快な本格派実力主義の猫社会の門をいよいよ明日叩くのである。
俺は猫となってモノホンの猫社会に通用するだろうかといった不安な気持ちとめでたく年の瀬に人間を廃業できる喜びという二つの感情が胸の内でちゃんぽんされて、さっきからスクワットをしたり、コタツの角で額を何度も打ち付けたり、おにぎりを三個拵え冷蔵したり、トースターのタイマーを勢いよくつまんでゼロに戻して「チンッ」と鳴らしてみたり行動に一貫性がなくなっていた。
しかし、俺はハッとしてグッとは言わず、変わりに「ふへへへ」と笑った。これこそ、まさに俺の大嫌いな人間やんけ。非常に高等で神経質すぎる人間は同時に複数の感情を持ち合わせて苦悩することができるのだ。不安と歓喜という一見相反するものが同時に共存してしまい、人は混乱し半狂乱のような言動を起こすことがしばしばある。とてもみっともないとことだと俺は思う。人間以外の数多いる動物にはこういう羞恥をさらすようなことはないだろうと思う。他の動物たちは理路整然と非常に細分化した刹那単位で一つの物事だけを考えて堂々と生きている。腹が減ったら獲物を捕らえるし、外敵からの危機を感じたら子を天敵から必死に守る。迷っている暇などなく、迷ったら絶命するというシビアな社会で生きているのだ。しかし、これが動物としての正直な生き方であり、俺が明日から求める憧憬である。
こんな、みっともない姿を晒すのも人間である今晩の間だけだと思ったら笑い飛ばせてしまった。どうせならば、今まで人間として生きてきて否定し続けてきたことを経験するのも悪くないなぁと思い立った。そこで真っ先に思いついたのがオカマバー訪問であった。率直にオカマバーの仕組みがとてつもなく理解できない。もうこれこそ人間の愚の極みというか、男が女装をして酒を煽ってきた挙げ句金を取るなんてカツアゲに等しいとさえ思うのだ。しかし、これを自らの意志で店に赴いて行く者があるというのは心の底から驚愕するほかない。
普段であれば絶対に行こうと思うことはないが、こうなったらとことん人間を辞めれる幸せを感じるためにもオカマバーに行ってやろうと決意した。早速、ダウンを羽織って二度と戻ることもない部屋を鍵もかけずに出て行った。
五階建て雑居ビルのいちばん上には白地に赤の蛍光看板で消費者金融の看板が輝いていた。そのビルの地下に潜る階段を降りると「Mr.ミルク」という店があり、携帯の検索エンジンでヒットしたオカマバーであることを確認したのち入店した。
「いらっしゃぁいませ」
と、言って小股で出迎えた人はどう見ても女性だった。オカマだけじゃないのかとそのまま案内された席に座り、睨むように店内を見渡すと、やはり店員は女ばっかりではないか。
「はじめて?何飲む?」俺の横に座った女っぽい奴は吸い込まれそうな潤んだ目で俺に聞いた。間近で見る顔は、筋通りの良い鼻梁に弾力がありそうな真っ赤な唇といい妖艶な顔だちであった。赤いドレスに大きく開いた胸元も女であり、スリットから見える腿は白く、細い線で成っている美しい脚に目の遣り場が定まらない。
「緊張してるの?かっわゆいぃ」
と、言って横に座っている妙に女っぽい奴は長い人指し指で俺の額を突いてきた。
やばい。可愛い。恋の免疫が無い俺は早くもペースを乱され始めていた。
ところが、すぐに俺の横に座っている女っぽい「ミー」という者が真正の男であることが判明した。それは、俺の後に客として来店した団体がやってきた時であった。忘年会のハシゴでやってきたと思しき一行であり、中には女性の姿もあった。
ミーは「ちょっとごめんね」と言って席を立ち団体を出迎えに行ったのだが、男客には手ぶり身振りで歓迎しながら「いらっしゃぁい」などと愛想を振りまいていたのだが、団体客の女のひとりが「きゃあ、わたしオカマバーなんて初めてぇ」といった瞬間、
「じやかぁっしゃい。ボケナス。牛乳飲んで早よ帰れ、ブス」
と、野太い輩声で言い放ったのだった。
呆気にとられたのは俺と女性客のみで他の客や接客中のカマたちは、酒を飲みながらそれを聞いてゲラゲラ笑っていたのだ。
どうやら、オカマバーは女性客には徹底的にこき下ろすというルールがあるあしく、さっきからカマ共は順繰りで女の元に行っては「で、オマエいつ帰んのん?」とか「くっさ。芋くさ。」と罵倒し続け、相変わらず他の男性客はそれを見て笑っていた。
戻ってきたミーにどうして女にだけ冷たくあたるのか聞いてみたら「だって、オカマバーって男だけで色気を売買する究極の遊び場やもん。女なんか来たら冷めるわ」と女より女っぽい男である彼は優しい目を俺に向けて言った。
すっかりミーに魅了された俺は、いつまでもこうしてミーと話をしていたいと思いつつ人間として最後の夜を過ごした。
そして、ついにその時がやってきた。トイレで小便をしていると、突然全速力で駆け抜けた後のように鼓動が激しくなり、とても立ってられなくなって、その場で四つん這いになってゼーゼー言っていた。するとぞわぞわ百足が全身を這っているような嫌悪感がやってきて、手を見ると湧いてくるように毛が蠢きながら生えてきて、型にはめられているように身体が収縮し始めていた。
どうやら夜が明けて朝になりつつあるらしい。俺は猫に転身しつつあるのだ。頭の中が霞みはじめている。俺が人間として思考できるのももう少しの間だけだ。全否定していたオカマバーがこんなにも潔白で楽しいだなんて思わなかった。実は、今まで俺が実地検証もせずに否定してきたものの中には今夜のオカマバーのように価値観をひっくり返されるようなものは、まだいくつもあったのではないだろうか?安易に猫になりたいだなんてホントにいいのか?人間社会ってもっと楽しくて、清いものなんじゃないのか?
ミー。もっと君と居たいよ。ミーが人指し指で突いた俺の額は狭くなり毛が茂っている。人指し指。いいな。この響き。もう俺に人を指せる指は無くなってしまった。
扉の向こうで戻らない俺を心配してミーが呼びかけてくれている。ありがとうミー。今すぐミーの元へ…… 行きたいのだが…、


大きな音がして戸が開くと僕よりはるかに巨大な人間が立っていて、僕をみるなりうなり声を出して、僕を威嚇してきた。 一瞬たじろいでしまったが、僕はその人間の脇をすり抜け駆けだした。
怖い。怖い。人間は怖いよ。低くて腹に響く声を出しながら追い出さなくてもいいのに。 寒っ。外はとても寒いなぁ。とにかく暖かい所に行かなくちゃ。凍え死んでしまうよ。
人から凄いと思われたいという願望は誰しも少しくらいは持っているはずで、ぐるりと見渡す他人から羨望の目で射られると概算を越えたエクスタシーが身体中を這い回るのである。
実際に超人ならば何の苦労もない。拳法が達者で相手をバッタバッタ倒したり、強烈に落ち込むスライダーを投げてたくさん三振をとれたり、独創的な旋律をギターで奏で狂うような百ないし千に一人の逸材ならば、自然に自分の能力を発揮するだけで数万のオーディエンスが彼らだけに羨望の眼差しを向ける。
しかし、自分は突出した能力がない凡凡人であり、人から「すごぉい」なんて言われるためには虚というものでネタを構成することもある。なるだけリスクのない虚構で。リスクとは、嘘がバレてしまうということで、嘘を放った瞬間、即、検証されたりしえない嘘をつく必要がある。たとえば、「ぼくは、バク宙をきっている間に持統天皇の一首を早口で詠みあげて、蝉丸のようなたわけた表情をしながら着地をすることができるんすよ」と言ったとしたなら「ほな、やって」と言われたら仕舞いなわけである。リーソク嘘がばれる。自分はバク宙もできないし、持統天皇の一首も知らん。かろうじて蝉丸の顔をなんとなく真似るくらいしかできない。だから嘘にも細心の注意が必要なのだ。

とある日。大学のゼミで知り合った曽根くんと学食で昼食をとっていた。曽根くんはキャベツの千切りを口に運ぼうとしているのに一旦手を止め「なんかおもしろい話無い?」と言ってキャベツを食った。
自分は焦った。わざわざ箸の動きを止めてまでおもしろい話を聞き出そうとするなんて曽根くんは相当刺激を欲していると思ったからだ。曽根くんの期待に応えなければ彼は自分から去ってしまうかも知れないと不安に思った。曽根くんに今後つきあう価値がある奴かを試されているのではないだろうか。つまんねぇ奴と思われてはあしたから侘びしく一人で飯を食うはめになるのだ。自分は平静な感じで「ないことないなぁ」と言ってシラこく上を向いた。
曽根くんはいよいよ箸を置いて「マジで?」と言って目をクリンクリンさせていた。
「爺ちゃんの話やけどさぁ、うちの爺ちゃん八十近いのにボディビルやってんねん。今でも果敢に大会とかに挑むために日焼けしてガンガン鍛えてさぁ。もう笑うで。造り物みたいな筋肉隆々な体格に老人の顔が乗っかってんねんもん。ログハウスの丸太みたいな腕してんのに仁丹大好きって。なんか変やろ?」
と自分は思いつきのまま言ったのだ。とにかく曽根くんが「爺ちゃん、ええキャラしてんねんなぁ」とそこそこ喜んでくれたので安心した。明日も曽根くんと学食で飯が食える。

しかし、計算外だったのは曽根くんは新聞部に所属するほどのジャーナリストで好奇心がハンパなく旺盛だったのだ。二、三人の部員を率いてうちに取材にやってくると言うのだ。なんか、大事になってね?
やばいなぁ、嘘バレるわ。念のため居間の襖を開けた。
案の定だった。皮がたるったるの影も身体もうっすーい細身の爺ちゃんが茶をすすっていた。目を覆いたくなった。
あと、三時間。三時間後の曽根くんの顔はいったいどんな顔になっているだろうか。三時間しかない。いや三時間もある。爺ちゃんに腕立てをしてもらおうかな。自分が蒔いた虚構に少しでも努力して近づけることが曽根くんに対しての誠意ってものだ。
爺ちゃんと自分は声を掛けた。しかし、爺ちゃんはそれに反応することもなく、ゆっくり茶をすすりながら壁に掛かっているカレンダーを見ながらニヤニヤしていた。
俺はザックバランに生きてきただけで別に悪いことではないと思っている昼下がり。どうにもこうにも俺には人が寄りつかないし職もない。つまり文無し迫害野郎。
たとえば、今俺はとあるカフェにいる。昼下がりのカフェはサボタージュ・サラリーマンのお休みタイムや奥様たちの座談会が催されている。ちなみに俺の正面のテーブルでラテを飲んでいるサボタージュ・サラリーマンは下劣な目つきで二席右に座っている奥様たちの体を見てニヤニヤしている。すかさず俺はサボタージュのもとに駆けよって「やめなよ。気色悪いぜ」と言った。
サボタージュは寝起きの猫みたく鋭敏な目つきを俺に向けて「見てねぇよ。なんだコラ」と言ったのだ。
俺は若干キレ気味のサボリーマンにむかついた。もし奥様たちがサボタージュの視線に気づいたら気味悪く思うに違いない。サボタージュがカフェで思いがけない恥をかきすてないように警告を促したというのに。俺は嫌みったらしい語気でサボタージュに食いかかった。
「何がいけないかわかっとるやないか。俺はやめろとだけ言った。でも君は見てないと言ったよね。君はラテを飲んでいたし、タバコも吸っていた。つまり君はやめろと言われたら、何を?と答えるべきで、即刻に見てねぇよと言うところから推測すると下劣な目で低級奥様を見ることにやましさがあったんだろ」俺が言い終えた時点でサボタージュはとっくに退店しており気がつくと俺の周りには、品のない不幸せな香水のにおいが漂っていた。低級奥様たちが鬼の形相で俺の周りに立っていた。
「ねぇ。ていきゅうって何」平行四辺形の輪郭をした虹色の巻き髪奥様があからさまな敵意を剥き出しにして言った。「わたしたちを指さして低級と言ったわね。侮辱ざます」
平行四辺形の顔は幼児が枠縁を無視して塗り絵をしたような乱雑な化粧を施しており樹海の魑魅のようであった。
しかし、俺は相手が戦慄の悪魔であろうと動じない。ザックバランに行くのだ。
「俺の個人的な意見、思慮なのでとりわけ気になさらないで結構かと思うのですが、 低級というのは比較対象あっての低級なのであって、それは俺の奥様に対するスタンダードがあなた方よりはるかに高水準に置いてあるからでそれに比してあなたたちが愚鈍なだけです。つまりあなたがたがそれでいいならそれでいいじゃないですか」 呆気にとられた平行四辺形は行き止まりで立ち往生しているような顔をして言葉を失っていたが混濁した結果平行四辺形は俺の腹に渾身のブロウを打って出て行った。
激しい目まいの中、俺の生き方は間違っているのではないかと自問をして答えられないでいた。