さっきから主将の松平くんがちょけているので、練習がちとして進行せず、僕は、寒風吹きさらすグラウンドでただただ立ち尽くしていた。
松平くんは、我々の中で群を抜いて野球が上手だ。三塁手である彼は三塁線に弾き返された剛速球をなんなく捕球し、軽快なステップを踏んで一塁に送球を返す。また、彼は打っても落としどころがなく、打撃で最も出にくい三塁打の本数が僕らの中学校の属する地区内でも圧倒的な数を記録として残していることからもわかるように、俊足を兼ね揃えたパワースラッガーなのである。
しかし、彼のふざけきった性格が僕はとても気に入らない。素晴らしい選手として尊敬しているだけに非常に残念に思う。現に今、春期地区大会に向けチーム一丸団結し、野球の鍛練を積まねばならぬというのに松平くんは、タイツの中に硬球をつめこんで、膨れ上がった股間を前面に突き出して「玉悲鳴殿、玉悲鳴殿」と言いながら右往左往走り回っているのである。
僕たち野球部が地区大会の予選すら通過できないのは主将がど阿呆だからなのだ。松平くんはセンスが備わっているので鍛練の必要が無いかも知れぬが僕を含めた他の部員は日々野球に必要な筋肉を鍛え、自分の与えられたポジションの無駄なき動きを反復して習得する必要があるわけで、いくら松平くんが三塁線の難しい打球を捕っても、一塁手が落球すればアウトはとれない。いつも監督に叱られるのはミスをした僕らなのだ。だから僕たちは今すぐ練習を始めたいと思っている。みんなが今日の練習もわずかな時間しかないだろうと落胆していると、鈍い音とともに「だはぁぁっ」と言ううめき声が聞こえた。
ふと見ると仰向けに倒れている松平くんと立ち尽くしている副主将の藤原くんがいた。
「松平、たいがいにしとけよ」
と、小刻みに震えた藤原くんは、ぴくりとも動かない松平くんを見下ろすように言った。どうやら、いつも不真面目な松平くんに遂に怒りの針が振り切ってしまった藤原くんが松平くんを全身全霊をかけて殴ったらしい。さらに、ノビきった松平くんにまたがって拳を振り下ろそうとしたが、他の部員三人がこれを止めた。
「どうした。止めとけ、藤原」
「離せ。このボケ、いっぺんイワさなあかんのや」激しく興奮している藤原くんは三人の制止も振り切ってしまいそうだった。「おい、こら松平。俺ら全員の意志として主将を辞めさす」と、藤原くんが言った。
全員の意志?僕はこの言葉を飲み込むことができなかった。事前に僕ら全員に松平くんの主将解任をさせたいと確認したのか。少なくとも僕は言ってないし、松平くんを主将から外したいとは思わなかった。ただ、真面目に練習に取り組んでほしいと思っていただけだ。
「おまえらも、松平を主将から外すってことでいいよな?」藤原くんは、制止に入った三人の腕をほどいて、取り巻いていた僕らの正面に立ち上がりながら言った。藤原くんも相当思い詰めたあげくに松平くんを殴ったようだ。足は、震えているし、目は真っ赤で今にも泣き出しそうだった。たったひとりで決死の行動に出た藤原くんに胸を打たれた者もいるような感じだった。
テニス部もサッカー部も野球部の大革命の行方を黙って見守っていた。今、グランドは風が吹きさらして砂を巻き上げている音しかしなかった。
「藤原、オマエが主将になりたいだけと違うんか?」しばらくの静寂を破ったのはノーコン右腕の水田くんだった。「俺は、松ちゃんを主将から外したいなんて思わん。俺らの意志でとか勝手なこと言うなや」
「水田、おまえ」藤原くんが今度は水田くんを手にかけようとしていた。もはや、藤原くんは泣いていた。必死に何人かの部員が藤原くんを止めようとしていた。
いつのまにかテニスラケットを持った傍観者が僕のすぐ横にいた。野球部を取り巻く者はものすごい数になっていた。
「藤原ぁ」股間が膨れ上がったままの松平くんがゆっくり上半身を起こしながら藤原くんを呼んだ。松平くんのダメージは深刻そうで座ったまま気弱に吐いた唾は真っ赤で、頭を何度か振って意識を統一しようとしていた。「ほなら、全員に聞けや俺とおまえどっちが主将がええか」松平くんは、黒ずんだ目を藤原くんに向けた「そのかわりおまえじゃなかったら、副主将の座も無いぞ」
「部を辞めたるわ。おまえもやぞ」藤原くんが言った。
「おう」
犬の威嚇のような低音な迫力ある返事で松平くんは応えた。

僕たちは、ひとりずつどちらをリーダーにするかを言わなければならなくなった。見事に意見は分かれた。松平くんの野球の技術無くしてうちの部は成り立たないという松平派と統率がとれない松平くんより真摯に部の在り方を考えてくれる新体制を願う藤原派に綺麗に割り切れた。
現在、九対九。最後の一票を投じるのは、僕だった。藤原くんの潤んだ目と松平くんの朦朧とした目と他の部員の泳いだ目とサッカー部やテニス部の好奇的な目が僕だけに射されている。僕に投じられなかった方は部を去るのである。補欠で存在感がない僕が初めて注目されている。怖い、怖い、怖い。とても怖かったけれど、僕は主将の名前を言った。同時に部を去る者を暗に示したのだった。


翌日。
「声出してくぞ」
と、ゲキを飛ばしているのは新主将の藤原くんである。
なぜ、僕は藤原くんを選んだのか。それは、僕が三塁手だったからだ。松平くんが居なくなったら少しはレギュラーに近づくかも知れない。水田くんがさっきから恨めしそうに僕を睨んでいる。ノーコン右腕水田くんは、エース藤原くんを追放したかったに違いない。
まだまだ僕らは子供なのだ。